第4話 秀吉の野望 (2)

大村由己は、別所長治が立て篭もる三木城を攻略した播磨戦史の顛末を、軍記物にまとめるよう羽柴秀吉から仰せ遣っていた。由己はその軍記物語を携えて、播磨の三木城から山城の勝龍寺城にはるばるやってきたのだった。

城内では山崎での勝ち戦もあってあちこちで先の戦の武勇伝を肴に酒を飲みかわす秀吉軍の兵で溢れかえり、遠慮のない笑い声やおおっぴらで下品な言葉があちこちで飛び交っていた。

戦とは縁のない文官である大村由己は、だいぶ場違いだとは認識しつつも、彼らの邪魔をしないよう、周りをチラチラ覗きながら、そそくさと秀吉のいる御殿へ向かっていった。

大村由己は若い頃、古くから五山文学と言われる漢文学の中心地だった京の相国寺で漢字を学んでいた。文学に深い知識を持ち、経書や史書などを誦(そらん)じ、播磨ではちょっと知られた存在ではあった。秀吉が播磨の別所長治と対峙していた頃、その評判を聞きつけて大村由己に近付いたのだ。それ以来、秀吉の側近くで主に代筆や、戦に同行して負傷兵の数や負傷の原因、行動記録、首級記録など刀仕事よりも筆仕事に従事していた。

由己は元来、筆まめで、いつも懐には刀ではなく、墨壺と矢立と呼ばれる筆入れ、そして備忘録帳を忍ばせ、所構わず書付するのが癖だった。齢四十六となった由己の頭髪は既に白髪まじりとなっていた。

御殿の表書院に通され大村由己は、下座で居住いを正し、秀吉が来るのを待っていた。正面の上座の背には床の間と違棚があり、そこの掛け軸に由己の目が止まった。

それは朝霧が覆う山岳に建つ、荘厳な返り屋根の寺院の画で、白描画に力強い筆が印象的であった。その墨の濃淡で表現された水墨山水は、この書院造りの間に漂う木の香りと共に、静寂な風合いを演出していた。

そんな風景を堪能していた由己だが、その山岳風景に突如仄暗い暗雲がたなびき、静寂をかき消す嵐が巻き起こったかのように、ドカドカと廊下を遠慮なく下品に歩く足音が近付いてきた。その刹那、大村由己はハッと我に返って両手をついて慌てて頭を下げた。するとザッと金箔の襖が開いて、秀吉がドカッと勢いよく上座についた。

秀吉は座るなり、懐から扇子を取り出すと、その六本の指で忙しなく、扇ぎ始めた。その様は織田家宿老の風格など微塵もなかった。秀吉の六本目の指は、幼き頃に切り取ってなかっただけだが、これを利用して天に選ばれし者じゃと冗談混じりに交渉に使うのが、『人たらし』の十八番で由己もそれで口説かれていた。

秀吉は暑さにうんざりした表情を見せながら、由己に声をかけた。

「おう、由己、久しいのう。遠路ご苦労じゃったなぁ」

秀吉はいつもより声高で張りがよかった。由己は、勝ち戦で高揚感に浸っているのだと察し、祝意を述べる。

「上様、この度、山崎の合戦にて明智光秀を打ち果たしたるだん、執着至極に存じます」

由己は畏まって挨拶した。秀吉はこの言葉にご満悦で

「大恩ある信長様の寝首をとるような真似をしくさった、憎き明智光秀を、見事討ち取ってやったわ。ガハハハ」

秀吉は思わず笑みがこぼれたが、やや呆然とする由己の顔を見て、サッと神妙な顔色に戻した。

信長の突然の死という悲劇を目の当たりにして、深い悲しみと悲痛の念に苛まれているのではないかと、由己は推察していたが、それよりも織田信長の仇を奪った、という揺るぎない大功を手にした高揚感で心躍っているように見えたのに、由己は違和感を感じていた。由己は図らずも秀吉の本音を垣間見た気がした。秀吉は由己の表情からそれを察したようで表情を戻したが、既に遅かった。

大村由己は少し咳払いし、仕切り直した。

「上様、率爾(そつじ)ながら、先の大戦をまとめた播磨別所記がこれに」

秀吉は扇で由己をゆっくりと仰ぎ、苦労を労う真似をすると、

「おぉ、できたか! 大義なり。ゆるりと検分したいところじゃが、実はわしもなかなか忙しい身でのう。そうもしておれんのよ。早速で悪いが由己、おみゃあさんに頼み事があるでよぉ」

「秀吉様、何なりとお申し付けを」

「うむ。実はなぁ、悪逆の徒、光秀めを打ち果たした此度の一連の事変を軍記物にまとめて欲しいのよ。それを信長様の葬儀に合わせて天下にばら撒きたいのよぉ」

大村由己は眉をひそめて

「天下に……でござりまするか?」

秀吉の笑顔に仄暗い影がさす。そして秀吉は声を殺しながら続けた。

「そうよ。織田信長が倒れて世は再び乱れとるのよぉ。早々に誰かがまとめ上げにゃあならんが、誰もおらん。そこで、信長の跡を継げるのはわしではないかと思うとる。じゃが、わしゃあ、光秀を撃ったがこれまで信長という巨像に隠れ、陽が当たらなんだ。誰もわしなんぞ、知らんのよ。どこぞの馬の骨ってやつよ。天下人、あ、いやぁ、跡を継いで乱世の逆戻りを抑えるにゃあ、それなりの人望ってのが必定だでよぉ。そこでじゃあ、信長の葬儀をわしが仕切ろうと思うておるのよぉ。大々的に壮大なやつをのう。その折におみゃあさんの軍記物語でわしが……このわしが仇を撃ったと天下に知らしめたぁのよぉ。中国から疾風のごとく軍を返し、奸賊明智光秀を退治したとなぁ。ガハハハ」

由己は自身を睨みつけながら笑っている秀吉に恐怖した。なぜなら、秀吉のその眼には感情は宿っておらず、奥に何かゾッとするものを宿していたからだった。由己は背筋に悪寒が走るのを必死に堪えていた。

「ははっ、仰せのままに」

秀吉は上座からサッと立ち上がると、由己の方へズカズカと近付き、片膝をついて品のない笑みを浮かべた顔を近付ける。

「由己、京の民衆の血が滾(たぎ)るやつを頼むぞ! 滾るやつをのぉ」

由己はやや緊張の面持ちで落ち着いて答える。

「承知仕りました。されば本能寺の事変について、調べたき儀がござれば、しばらく刻を頂きたく。亡き大殿様のご葬儀は何時ごろに」

秀吉は由己に背を向けると上座へ戻る。

「なるべく早い時期にやりたいとは思うとるのよぉ。されどじゃあ、まだ信長の亡骸さえもどこにあるかわからんのよぉ。由己、おみゃあさん、ついでにその辺についても調べてちょぉよ。わしが聞いた話じゃあ、本能寺で信長がいた辺り、常の間の焼け落ちた跡には毛髪一本すら見当たらず、どこか消えてしもうたらしいのよぉ。薄気味悪い話よぉ。バァッとその襖を乱暴に開けて出てきたりしないじゃろうのう」

由己は思わずギョッとする。信長様の屍体はどういう形にしろ、形跡はあると信じていたからだった。しかし秀吉の言葉に、突如出現した謎という障壁で行手を遮られた様な不快感を覚える。そして、独り言のように呟いた。

「何もなく、消えたとな……」

由己は懐から備忘録帳と墨壺、矢立をサッと取り出し、サラサラと筆を走らせ始めた。由己は奇妙な顔をして自分を見ている秀吉に気付いた。

「それがしは、何かに書き付ておかないと心持ち悪しき性分で、ご容赦を……」

秀吉から裏顔が形を潜め、上機嫌の表情に戻る。どうやら信長の急遽に悲しむ演目は、忘れてしまったらしい。

「よいよい、して光秀め、いまだに死んでおるのか、どこかで生きておるのか皆目わからん。わしゃぁ、忙しゅうていつまでもあやつにかまっとる暇はないわ。どうしたらええもんかのう。では頼んだでぇ」

それだけ言うと秀吉は早々に姿を消すのだった。

「ははっ」

由己は備忘録帳を懐にしまい、平伏していた。由己の内には、何かすっきりしないものが残った。なぜ最後に秀吉が光秀のことを口にしたのか、理解できずにいたのだ。何か求められたわけでもない。ただの世間話だったのか。いずれにせよ、この軍記物語を構成する上で大事な要素となるのではと思案を巡らしていた。由己は頭をあげて下がろうとした時、突如秀吉が舞い戻ってきた。

「おう、そうじゃ、忘れとったわぁ……」

秀吉がそばまで近付いてきたので、由己は慌てて頭を下げた。

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