第3話 秀吉の野望 (1)

「官兵衛、光秀はまだ捕まらんか」

秀吉は勝龍寺城の御殿の表書院へ向かうべく、回廊をドカドカと歩きながら、吐き捨てるように言った。

秀吉は顔がやや細長く、目は出目金気味で口髭を生やして、一見ネズミのようであった。信長から「禿げ鼠」と言われていたことに、誰もが密かに嘲笑していたのだった。秀吉にはそのような不名誉な呼び名だけではなかった。秀吉と出会った商人、侍、皆なぜか秀吉のために、喜んで身を粉にして働くことから「人たらしの名人」とも呼ばれ、織田家中の家臣団の中でも、異質な才能を持ち合わせていた。その身分に相応しい礼儀作法を知らない姿で、あまり威厳を感じさせないのが、人たらしの名人たる所以かもしれない。

その禿げ鼠は信長横死の報を受け、備中高松からたった十日間で軍を姫路まで返し、休む間もなく山崎へ進軍していた。そして信長の死から十一日後、山崎にて明智光秀を討ち破ったのである。

今戦後処理のために、勝龍寺城に入城していた。元々この城は、京の治安維持を司る京所司代村井貞勝の与力である矢部家定、猪子高就の両名が城主だったが、本能寺急変の混乱に乗じて、光秀が占拠していたのだった。山崎の合戦後、一旦光秀はこの勝龍寺に帰城したが、羽柴軍の追撃に耐えかねて城を放棄。光秀は夜陰にまぎれて勝龍寺城の北門から脱出し、本来の拠点である近江国坂本城へ逃走した。その翌日、秀吉はこの勝龍寺に入城したというわけだった。

秀吉は逃亡した光秀の行方を血眼になり追っていた。早々に晒し首にし、天下に己の名を轟かせたい、というのが秀吉の野望であった。すぐに捕獲できるという目論見は外れ、目も眩む忙しさも相まって苛立ちを隠せないでいた。

「浅野長政殿より奇妙な報告があがってござりまするが……」

と官兵衛は言葉を返す。

「ほう、どんな奇妙なことじゃ。話してちょおよ」

横目で官兵衛を見る。官兵衛は釈然としない表情を作り、軽く頭を垂れる。

「ははっ。浅野殿が申すには光秀と思わしき、首を拾ったと農民から報告があがったようにござりまする」

その言葉に秀吉は一瞬疲れを忘れ、歓喜に染まる。

「おお、既に首となっておったか。こりゃ、めでたあやね」

しかし、秀吉は微妙な言い回しを聞き逃さなかった。

「————が『思わしき』とな」

官兵衛は秀吉の反応を待っていたかのように続ける。

「左様で。実はその首、この猛暑で既に傷みが激しく、首実験でもご本人か否か確認が難しいとのこと、さらに皮が剥ぎ取られており……」

秀吉はギョッとして官兵衛を見つめる。

「なんじゃと」

「そんなわけでそれがしも検分してはござるが、どうも判別つきませぬ」

官兵衛に困惑の色が滲む。秀吉は腕を組みながら目を細めて物思いにふける。

「ふうむ。こりゃあ、偽首かもしれんのう……。じゃが、偽首なら皮を剥ぐような真似をするかのう。それじゃあ、これは偽首じゃと教えとるようなもんじゃなかかぁ? 本物かもしれんが……。わからん。官兵衛、もそっと光秀の探索の方、進めてちょおよ。わしゃ、別の方法で攻めてみようぞ」

官兵衛に横目で視線を投げながら薄ら笑いを浮かべる。

自身の智謀に絶対の自信がある官兵衛だが、こういう時の秀吉の知恵には興味を覚えるようで、

「殿、一体どのように……」

秀吉は官兵衛が興味を抱いていることに胸を弾ませる。

「なぁに、警告文をばらまくのよ。仔細はおいおいな。まぁ、そういうのはわしゃぁ得意じゃで、任せてちょおよ」

秀吉は下品に笑う。

「して官兵衛、天下人への怪(みち)はどうじゃ。わしゃ、まだまだ天下においては無名じゃ。此度(こたび)の手柄はあったとしてもじゃ。やはり信長の跡目は御子息の信孝、信雄のいずれかじゃとなるのは必定。そうじゃにゃあて、この羽柴秀吉じゃと納得させたいのじゃよ。ここは思案のしどころじゃぞ」

官兵衛はやや興奮気味に話す。

「殿、信長様の葬儀をいっそう殿が喪主となって大々的に執り行うのは如何でござる。さすれば、否応にも殿へ視線が集まりまする」

秀吉は仰天しつつも悪戯っぽい笑みを浮かべ、

「な、なんじゃと! 織田家親族を差し置いてわしが喪主に! がはははっ。官兵衛、大それたことを考えるの。図々しいのは自認しとるが、さすがのわしでも震えるわぁ。愉快じゃの。おぬしの頭は智謀が湧き出る泉じゃのう」

官兵衛はやや顔をほころばせる。

「ははっ。ありがたきお言葉。ただ、筆頭の柴田殿は承知せんでしょうなぁ……」

秀吉は野心を剥き出しに虚空を睨みつける。

「……彼奴とは共に天を戴(いただ)かず……じゃ。ええ機会じゃ。堂々宣戦布告するのも分かりやすうてええわい。わしか、柴田か、織田家を分つことになろうて」

「腹をくくられまするか。この先のことを思えば、それが上策かと……」

秀吉は自身の展望に有頂天となり、いつの間にか疲れもどこかへ吹き飛んで上機嫌となっていた。秀吉は自身が喪主として位牌を手に堂々と先頭を行く姿を妄想するのだった。

「……さすれば天下に堂々と宣言するようなもんじゃわ。がはははっ。愉快、愉快。おお、そうじゃ。さきの警告文をこの葬儀に合わせてばらまくとしようぞ。こりゃあええわぁ。決まりじゃ。今播磨の大村由己がちょうど参っておるのよ。表書院で待たせてあるんじゃが、そっちはわし一人でよい。おぬしは光秀めの件、進めてちょおよ」

「ははっ。畏まってござりまする」

官兵衛は秀吉に頭を垂れるときた道を引き返して行った。

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