第28話 光秀の老ノ坂 (1)
光秀は備中高松の羽柴秀吉の後詰めに向かうため、坂本城から丹波亀山に軍を動かしていた。そして天正十年六月朔日深夜、丹波亀山城から出陣して老ノ坂に向かっていた。
信長からの屈辱的な折檻を受けて以来、光秀は酷く寡黙気味であった。
————ウオオオオオゥ!
突然狂ったように怒号を発する光秀に周囲の雑兵が、ギョッとして光秀を見つめる。雑兵たちは苦痛に歪む光秀の表情に怖気づき、何も言えずにいた。ただでさえ、暗闇の中の進軍だったため、光秀の怒号で気絶せんばかりに肝を冷やす雑兵が数多くいた。
「一体、殿はどうしたというのじゃ。最近めっきり口を開かず、開いたと思ったらあれじゃもんね……」
方々でざわついていた。
先行する利三は振り返って苦悩する光秀を哀憫の情で見つめていた。
「と、殿! 如何なされました? 一体そのお姿は?」
利三の声に光秀は全く反応しない。雨のため、全身ずぶ濡れになって刀を引きずり、亡霊が浮遊しながら近付いてくるように仄暗い坂本城の廊下の向こうから近付いてくる。そして鼻根部に皺を寄せて喰い縛る口からは血が垂り、血走った眼球を剥いて露骨に憎悪を撒き散らしていた。
それに何より、光秀がいつも気にして附髪をつけていたのに、頭皮が剥き出しになり、わずかな残髪もちりちりとなり乱れていたことに、ただならぬ事態が勃発したことを肌で感じていた。
光秀が利三のそばを通りすぎる。光秀は色なき虚ろな眼で虚空を睨みつける。そして、亡霊に取り憑かれたかような様で言葉をボソリと漏らした。
「利三、長宗我部の件の結果がこの様じゃ」
利三は語られた地獄の光景に言葉を失い、血の気がひく。
「なんという御労しいお姿……。殿! 申しわけござりませぬ。拙者が長宗我部にこだわったばっかりに……」
光秀は利三と目を合わそうとせず、前を見据えてまま声を殺してつぶやいた。
「死をも超える屈辱であった……こ、この恨み……くぐぅ……許さぬぞ! の、信長!」
苦々しい色を滲ませて光秀は、スタスタと利三から遠ざかっていった。
その後ろ姿を見送る利三は怒りで震えていた。長宗我部家の滅亡が決まっただけでなく、自身も危うく切腹せざるを得ない羽目に陥るところであったからだった。それに自身の光秀への進言でその気にさせてしまっていたため、光秀が辱めを受けたことは、利三にとって痛恨の極みでもあった。普段、思いをなかなか口にしない光秀が利三に怨みつらみをこぼすとは、よほどの恥辱だったに違いない。
そして、このやるせない情をどうすることもできない惨めさで、利三は胸が張り裂ける思いだった。そんな利三はボロボロの光秀の背中を見送ること以外できない自身に怒りで血が煮えたぎっていた。
*
「全軍、止まれ!しばし休憩と致す!」
光秀は老ノ坂の峠に差し掛かったところで号令をかけた。馬から降りると光秀は、近くにあった岩に腰掛けて頭を抱えていた。
忘れようとすると、脳裏に屈辱の残像が蘇る。その刹那、羞恥と憎悪が入り混じった情に身が染まり、それを静止させように怒号をあげていた。光秀はむしろ自分は忘れまいとする怒情に支配されていると認めざるを得なかった。そんな光秀が、自身に棲まう狂乱するもう一人の光秀を抑えて、なんとか冷静を装うことができるのは、昨日五月二十九日に届いたある報に原因があった。それは、安土城にいた信長が急遽、御側衆の数十人のみで京へ向かったというものだった。
耐え難い恥辱によって、朽ちた草木のように変わり果てた光秀に怪しい熱風が吹きつけ、突如煙をくゆらし、思わぬ火がついた。
————信長は数十人。我は数万の軍を備中へ進軍する準備中。
————絶好の機会かもしれぬ!
————こ、殺してやる! 殺してやるぞ、信長め!
光秀は普段なら事前工作で固めてから動くが、この謀を事前に漏らす事は当然できない。
————織田家中は四方八方に分散されて今信長の元へ駆けつけられる家臣団はおらん。
————細川家と筒井家は我が縁者。味方になれば近畿の平定は可能じゃ。
屈辱を晴らすのは今しかないのではないか? と信長への醜悪な殺意が脳裏をよぎった刹那、燻っていた火種が突如爆発したかのように光秀の中で燃え広がった。
光秀には恥辱を晴らす以外にも、苦悩の種があった。それは嫡男十五郎だった。齢十三ではまだ盤石な後継者としては不安であった。ましてあの信長に仕えて、この領土を支えていけるのか? そう考えると、
「……まだ若すぎる」
というのが光秀の結論だったが、その光秀も既に五十を超えて六十にならんとする高齢であった。この自然の摂理を覆すような謀略は光秀には思い浮かばなかった。
————あの信長さえ、この世におらねば……。
また、明智家の行く末に影がさしている別の理由がった。これまで信長より与力として光秀のそばにいた筒井順慶が、この度は関東の滝川一益の方へ出兵するという。これは光秀を筆頭とする軍隊の解体を意味するのではないか、と光秀は捉えていた。すなわち、高齢の自分はいよいよお払い箱で、あの佐久間信盛と同じ運命だとすれば、十五郎に後を継がせる前に明智家そのものが消滅しかねない。
———ならば、この好機に信長を亡き者にしてしまえば!
と、ぬらぬらとした憎悪を纏(まと)ったもう一人の光秀が耳元で囁く。その仄暗い光秀は殺意の業火に、苦悩の油を注ぎ込む。
そんな業火に足を取られ、引きずり込まれようとする光秀は十五郎に思いを馳せる。
備中高松への出陣前、光秀は坂本城で十五郎に会っていた。
「父上、それがし、名を改めまする」
「なんじゃ? わしの付けた名では不服と申すか? 十五郎」
十五郎は笑って答える。
「そうではござりませぬ、父上。父上が安心して戦場にて御働き頂くためでござりまする」
「ほほう、面白い。してどういった名にするというのじゃ?」
「ははっ、小五郎にござりまする。十の横棒を矢に擬えて真っ二つに折りまする」
「ほほう、矢を折るか! それは武士が何かを誓う印じゃなあ? 何を誓うのじゃ、十五郎?」
「ははっ、それがし、何事があっても乱世を生き抜き、明智の血を絶やすことがないよう努めまする。それゆえ、父上は後ろを振り向かず、存分な御働きを!」
「……小五郎か! よい名じゃ。後ろは任せたぞ」
「ははっ、御武運をお祈り致しておりまする」
光秀は十五郎の自分への想いを知って、嬉しさで胸がいっぱいになり、目に涙を溜めながら笑みを浮かべた。
十五郎もそんな光秀を見て嬉しそうに微笑んでいた。
光秀は新たな下知を出す。
「兵達に兵糧をとらせて腹ごしらえさせるのじゃ」
「ははっ」
————十五郎。父は間違っておるやもしれん。されど、「時は今……」じゃと心が告げておる。
————死をも超える屈辱を晴らさせてくれ!
光秀は十五郎に許しを乞い、そして、今大きく舵を切った。
「誰か、天野源右衛門を呼べ!」
近くにいた雑兵が天野源右衛門を呼びに行く。しばらくすると走って現れ、光秀の前にかしづいた。
「源右衛門、我らはこれより丹波口に向かい京へ入り、本能寺を取り囲む」
「はぁ? 京でござりまするか? 備中高松ではなく?」
「そうじゃ。其方は一足先に先行し、怪しい者がいれば叩っ切れ! よいか、あまり音を立てるな。敵に知られとうない」
「ははっ」
「よし、いけ!」
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