第27話 亀裂 (2)

階段の軋む音と共に光秀が顔を出した。そして平伏するのだった。

「明智光秀めにござりまする」

「光秀、おぬしには坂本へ帰城し、備中高松への後詰めを申し付けたはずじゃ。今更何用か!」

なぜか既にご機嫌斜めの信長の声色にやや気後れしつつも言葉を続ける。

「殿、折り入って、ご相談したき義がござりまする。まずはお人払いを……」

一鉄と高就は、その言葉に反応して腰を浮かせ、その場を去ろうとするが、信長は平手をサッと一鉄に向けて静止する。一鉄はあげた腰を再び下ろして座り直す。

信長も他の宿老連中と同じく、光秀のなんでも閉鎖的にやりたがるところが、虫唾が走るほど気に食わなかった様だが、光秀はそのことに全く気付いていなかった。

「光秀、彦四郎もお主に用がある。このままでよい。申せ!」

信長の見つめる先に浮かぶ怪しい雷雲が、ゴロゴロと唸り声をあげていた。

「はっ。しからば……、長宗我部元親の四国征伐の件にござりまする。実は先日……」

と言いかけたとき、信長が言葉を遮った。

「その話はもうよい。来月三日にも四国へ信孝が、軍を率いて四国へ渡るわ。四国はそれで片が付く。それよりもおぬしに……」

今度は光秀が慌てて信長の言葉を遮った。

「あいや、しばらく! 殿、お聞きくだされ! お願いにござりまする。元親は既に落ちましてござりまする。それゆえ……」

信長がカッと振り向いた。その信長の眼は吊り上がり、眼球の毛細血管まで、怒張のあまり、眼が仄暗い赤に変色するほどであった。そんな眼球を剥いて光秀を睨みつけていた。

それを見た光秀の背中に戦慄が走った。

「くどい! 元親は終わりじゃ。四国征伐は既に決まった話じゃ。よいか、元親は終わりじゃ!」

————それ以上は危険ぞ! 光秀殿。

と引き下がらない光秀を凝視する一鉄の眼は、明らかにそう訴えていた。

「殿、そうではござりませぬ。元親殿は既に殿の傘下に! わざわざ血を流すことはござりませぬ。無益な殺生はおやめくだされ。戦わずとも四国は手に入ってござりま……」

光秀が懐から長宗我部の書状を出して見せようとした、その刹那、雷雲から稲妻が走り轟音が響きわった。そして安土山の木を真っ二つ引き裂いた。稲妻の光は一瞬目の前の視界を真っ白にさせ、驚いた一鉄は声を漏らす。

「うわっ!」

そして、ビクッと上体を仰け反った。

信長の纏う空気が震えるほどの怒気によって、人の皮がボロボロと剥がれ落ち、醜悪な猛獣が顔を出すように見えて、光秀は震え上がり、全身の毛が逆立つ感覚に襲われる。

「まだ言うか! その話はもう終わりじゃ。元親は殺す! あやつはわしの命に背いた。もうそれ以上言うな!」

光秀は、これ以上は危険と察知し、口をつぐんだ。光秀は利三の思いを遂げてやりたかったが、それを押し通すことができなかったことに、心の中で詫びるのだった。

一方、信長の怒りは頂点に達し、殺気の滲む鋭い眼光と、凄みのある声で詰問する。

「おぬし、稲葉一鉄の家中の那波直治を引き抜いたそうじゃのう。それはどう申し開きするつもりじゃ。————返答次第じゃ許さんぞ!」

光秀が凍りつく。信長の妙にゆったりとした口調が、凄絶な狂気を感じさせた。平然を装ってはいるが、明らかに焦りの色が滲み出ていた。

「そ、それがしは引き抜いてなどおりませぬ!」

「光秀!」

信長の怒号が降りかかる。

「今、那波直治はどこにおる? 彦四郎の美濃か? いや、坂本におるであろう。おぬしの所領ではないか!」

信長の怒号に、光秀の体がビクッと反応する。

「よいか、家中同士の家臣の引き抜きは、このわしが禁止にしとる。どう言い逃れする気じゃ! 軍規違反は明白じゃぞ、光秀!」

光秀の顔からは血の気がひいて蒼白となり、冷たい汗が噴き出ていた。

一方、外では降りしきる雨の中、雷雲が唸る。

「いやいや、しばらく! 那波直治は確かに坂本におりまするが、直治が浪人となったゆえ、拾うたのでござ……」

雷の轟音が鳴り響いたその刻だった。信長の顔中の毛細血管が怒張して眼が吊り上がり、醜悪な赤鬼と化していた。その信長が光秀の方へドカドカと急接近する。

光秀は、信長の行動に唖然としたが、あっ! と咄嗟に身の危険を察知し、戦慄が背筋を貫いた。

「と、殿……!」

「ぬかせぇ!」

信長は稲妻のような怒号を張り上げながら、右足で光秀の右頬を力一杯蹴り飛ばした。仰天した光秀の上体が後ろへ吹き飛んだ。顔を足蹴にされて一瞬視界不明瞭となり、激痛に顔が歪む。その光秀にあんぐり口を開け、驚愕と恐怖が入り混じった視線を送る一鉄と高就が目に入った。しかし、その視線の先は光秀ではなく、やや上の方に向けられていたことに、光秀はハッとする。

そのはずみになんと光秀が頭につけていた附髪が大きくズレてしまった! 光秀は髷も結えないくらいの薄毛に形容できない羞恥の念を抱いていた。この附髪をいつも身についていたのは、公衆の軽薄な視線を浴びる中で、光秀がなんとか正気を保つ防具であった。

「うわぁ……」

光秀は足蹴にされたことよりも、附髪がズレたことに悲鳴をあげる。慌てて附髪を押さえようとする光秀をよそに、怒りに血が燃え滾る信長は、その附髪を鷲掴みにした。そして、留め具によって光秀の毛髪とまだ繋がっていたにも関わらず、ブヂブヂブヂと、無理やり毛髪ごと引き抜き、天主から外へ投げ捨てたのだった。

「やめぇ……がぁああがぁぐぁ……」

光秀は頭を両手で抱え込み、煮えたぎる油を無理やり飲まされたかのように、白目を剥いて悶絶をする。

「小賢しい言いわけしよって! このハゲ頭が!」

信長の毒々しい怒号が飛んだ!

「ぎゃああああああああああああああ」

光秀は狂乱したように悲鳴をあげ、頭を抱え込んで叫び続けた。

一鉄や高就は、おぞましいまでの醜態を見てられず、狂乱する光秀から目をそらす。

「ぎゃああああああああああああああ」

落雷の轟音が響き渡る。光秀はあまりのことに乱心していた。頭を抱えて悶絶する。

「うるさいわ、このたわけが! 黙れ! 黙らぬか!」

頭を抱えて倒れ込む光秀に、信長は非情にも足蹴にする。

「ぎゃああああああああああああああ」

怒り心頭の信長は、容赦無く打ち叩き、足蹴にして光秀の劣等感を踏み躙(にじ)るのだった。

流石にみても聞いてもいられないと思ったのか、稲葉一鉄が、信長を止めに入る。

「殿、どうかお鎮まりを! 殿! これはあまりにも、やりすぎでござりまする! これでは明智家と稲葉家に大きな禍根を残すことになりまする。どうかお鎮まりを!」

頭を抱えたまま倒れている光秀に、怒号が落ちる。

「此度の件、光秀に責あり。直ちに那波直治は彦四郎へ戻せ! わかったか! 光秀」

「して斉藤利三は切腹じゃ。首を持って参れ!」

その言葉に倒れたままの光秀は、ガッと眼を見開いたまま呆然とならざるを得なかった。

「あいや、しばらく。殿、斎藤利三殿は武芸だけではなく、芸能にも優れ、いずれ必ず殿のお役に立ちまする。此度の不始末、必ずや後日、挽回することでしょう。今殺すは早計にござりまする。どうかお考え直しを!」

と命乞いをしたのは、信長の側近猪子高就だった。

「ふぅ」

信長は息を吐き出し、怒りを鎮める。

「よい。利三の件はそちに一任す」

「ははっ、ありがたき幸せにござりまする」

信長は高就の言葉を入れた。

光秀は痛みよりも、これ以上ない屈辱にズタズタに切り裂かれていた。まだ一思いに斬られた方がマシだったかもしれない。信長は何か言ってはいたが、既に光秀の耳には届いていなかった。光秀はフラフラと立ち上がり、浮遊しているかのように力無く天主を後にするのだった。どうやって降りてきたのか、光秀には記憶がなかった。

ただ、そんな光秀を安土城の回廊ですれ違う人は皆、光秀を恐れ、女中は悲鳴をあげ、恐怖のあまり座り込む者までいた始末だった。

光秀は突き刺さるような雨に打たれて安土を後にした。傘をさす気力もなく、ただ雨に打たれながら刀を引きずって亡霊のようにそぞろ歩き、大雨で霞む景色に消えて行ったのだった。


                 *


「あのお姿を見た明智家中、特に斎藤利三殿は心中穏やかではなかったはず。とりなしによって助かりやしたが切腹の仰せが下ったんですからなぁ」

兵吾郎は光秀と利三の生首を見ながらつぶやいた。

「天下統一を目の前に暗殺された理由が、光秀の私怨だったとは。信長様を亡き者にして恥をそそいだつもりが、今度は裏切りの汚名を被ったというわけか。なんとも奇怪なことじゃ。長宗我部元親は、確か信長に誼を通じていたはずじゃ。その方針さえ変わらなければそもそも、此度のようなことは起こらなかったのではないかのう」

由己は兵吾郎から去年末に、長宗我部の処遇を決める談合があり、そこで方針転換があったことを聞いていたが、なぜ松井友閑が敵視政策を推したのか、これ以上はわからなかった。

「これで謎は解明ですかい? 旦那」

「まぁ、そうじゃなぁ。団子とお茶でも飲みながらゆるりと書くわい」

兵吾郎は軽く頭を下げて

「それじゃ、わしはこれにて!」

生首を背に、その場を離れようとする兵吾郎に、由己はさらに声をかける。

「これからどうするんじゃ。故郷に帰るか?」

「そうさなぁ……」

「ちなみに故郷はどこなんじゃ?」

「————忘れやした」

由己と兵吾郎はニヤリとする。

信長の首がどこに行ってしまったのか? それは兵吾郎しか知らない故郷のどこかではないかと推測したからだった。それを悟ったのか兵吾郎は何も言わなかった。兵吾郎は由己の方へ振り向くと意味ありげな笑みを浮かべていた。そして何も言わず、立ち去っていった。

この時、由己はまさかこの後、意外な形で再び兵吾郎に向き合うことになろうとは、夢にも思わなかった。

そしてそれは由己を恐怖のどん底に叩き落とすことになるのである。

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