第26話 亀裂 (1)

天正十年五月二十五日頃、本能寺襲撃の五日前、明智光秀は斉藤利三が受け取った長宗我部元親の書状をもって、四国征伐中止を訴えるため、坂本城から安土城へ向かっていた。琵琶湖の辺りの安土山にそびえる豪華絢爛な安土城は、どこからでも目にすることができた。

馬に揺られていた光秀の周りには、見るからに重い空気が漂っていた。一旦決めたことを覆されることを極端に嫌う性格、そして全てをねじ伏せるあの気性、信長の決定を覆すことの難しさを光秀自身が誰よりも理解していたからだった。

しかし、是が非でも立ち位置を改善しうる手柄が欲しい光秀にとって、喉から手が出るほど欲しい功名でもあった。薄氷を踏む思いではあるが、やってみる価値は十分にあった。だが、あの気性を考えると、目の前の安土城がどんどんと大きくみえるにつれて胃のあたりがキュッと痛むのであった。

光秀は安土山に到着すると、本丸までの道のりが長い百々橋口道を避けて、七曲道から本丸へ入った。その日、風が強い日だった。ちょうどその頃、強風に煽られて暗雲が青空を覆い隠そうとしていた。

目の前に鮮やかな安土城が現れると、まるで仁王立ちの信長が鋭い眼光で見下ろしているようにみえるのだった。そんな安土城を見上げて固唾を飲む光秀であった。

城番から上様が天主にいると聞きつけて光秀はそこへ向かっていた。一歩城内へ入ると、そこは別世界だった。金箔の下地に水墨画が描かれ、龍が伸び伸びと空を駆けていれば、朝霧に包まれた山岳風景などもあり、心奪われる美術品が所狭しと並んでいた。しかし、それら美術品は、あの信長に挑まなければならない光秀の孤独さを、一層引き立てるもの以外の何者でもなかった。

五重まで登ってきた光秀は、天主に上がる階段前に控える兵吾郎を見た。光秀に気付いた兵吾郎はその刹那、ハッと顔色を変えた。そして何かを訴えかけるような視線を光秀に送り、ゆっくりと首を横に振った。光秀は兵吾郎から何かを受け取ると、眼を閉じて深呼吸する。そして兵吾郎に頷いてみせた。

「明智光秀様にござりまする」

兵吾郎は階段下から天主にいる信長へ声をかけた。

「通せ!」

信長の凄みのある声が階段上から降りてくる。見上げる光秀の額から汗が滲む。

兵吾郎は右手の掌で階段上を指し、上がるよう合図をした。光秀は緊張の面持ちで階段の端に捕まりながら天主へと上がっていくのだった。

光秀が信長のいる天主に上る少し前、信長は天主から下界を見下ろしていた。天主から一望できる遠景に中国の毛利、四国の長宗我部を見据えて、天下統一への思いを巡らしていた。思いがけず、階段下に控えていた兵吾郎から声が上がった。

「上様、稲葉一鉄様にござりまする」

「よし、通せ!」

稲葉一鉄は天主に上がると平伏する。その後ろから信長の側近猪子高就も上がってきた。

「彦四郎、甲州征伐の折、呂久の渡しでの宴は寛(くつろ)いだわ」

「ははっ。ありがたき幸せにござる。また飲み比べしとうござる。ハッハッハッ」

「今度は負けぬぞ。彦四郎!」

「殿に唯一勝てる戦が酒でござる、負けませぬぞ。ハッハッハッ」

信長は普段、酒を嗜まないので当然弱かった。酒豪の一鉄に叶うわけが無いのである。

「して彦四郎、そこの高就が光秀について、何やら言うておったが、今日はその件か?」

信長は首だけを振り返り、一鉄に視線を投げた。

ちょうどその頃、強風に煽られて暗雲が青空を覆い隠そうとしていた。

「ははっ。先月の終わり頃、我が家中の那波直治が拙者の元へやってきて、暇乞いに参った、とか言い出しまして。急に何事ぞ? と不審に思い、後をつけさしたところ、明智光秀殿の坂本へ身を寄せているよし」

不穏な空気を悟った信長が一鉄を睨みつけた。

「なんだと! あやつが裏で動いておると申すか!」

「ははっ。裏も何も前々から斉藤利三より誘いを受けていたとか。その斉藤利三も元々我が家臣にて。既に二人も引き抜かれ申した。家臣に裏切られるは、我が不徳の致すところ。されど、何より軍規違反でござる! このままでは我が家臣がどんどん引き抜かれもうす。そこで恥を忍んで殿のお耳にをば……」

一鉄はちらりと信長の横顔を見る。明らかに信長のこめかみから額にかけた血管が怒張していることに気づいたようで、ハッと息を呑む。

「あやつめ、わしの目を盗んで影でコソコソと……」

沸々と血が湧き立つ。そんな信長の視線の先にある暗雲は今、その怒りと同調するかのように怪しい雷鼓を轟かせはじめていた。そして、ついにシトシトと、にわか雨が降り出したと思ったら、それはすぐに突き刺すような土砂降りへと変わった。

ちょうどその刻、階段下から兵吾郎の声がしたのだった。

「明智光秀様でござりまする」

信長は一瞬振り返り、階段の方へ目をやる。そして再び雨模様に視線を戻した。

「通せ!」

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