第25話 信長の最後 (4)

                  *


腰に白い布で包んだ怪しい茶壷を下げた兵吾郎は、山間の、けもの怪や、人目を避けた怪を進んで、なんとか故郷の駿河にたどり着いていた。

そこは富士村の本門寺だった。境内は昔から不入の地とされていて、植物から小動物まで殺生も禁止されていた。そこは、数百年以上の樹齢を誇る古代樹の群生を見ることができた。

兵吾郎はそれらの前に立ち、久しぶりに目にした。巨大な幹の杉の群生を眼の前にすると大人になった兵吾郎でさえ、巨人の森に迷い込んだ小人の気分にさせられる。兵吾郎は童の頃に見て以来だったが、少しも変わりない風景の中で、木々の合間をすり抜けながら走り回る童の姿が見えるようだった。

足元に落ちていた枝を拾い上げ、刀に見立ててビュンビュンと振り回していると、何もかもが楽しかった童の頃の想いが蘇り、あの時の自分にシンクロする。

「これ、そこのお侍。そこは不入の地じゃ。入るでないぞ」

一瞬思い出の声かと勘違いする兵吾郎だったが、ふと振り返ると、その懐かしい声の主が近付いてきた。住職の日順上人だった。

「和尚、おひさしゅう。兵吾郎にございやす」

兵吾郎の顔から自然と笑みが溢れる。

「おお、いつも不入の地に侵入しておった童か? 幼顔が残っておるわ。右頬にでっかい刀傷なんぞ、作りよって」

「和尚、この寺もあの時と変わらないようで」

「古代樹の森じゃぞ。何も変わらぬわ。目に見えて年を食ったは、この愚僧のみじゃ。ハッハッハッ」

和尚は久しく会っていなかった孫にでもあったかのように喜びに溢れているようであった。その和尚が兵吾郎の腰のものに目をやる。

「その昔、あの大木のような侍になると豪語しよったが、その後どうじゃった? 其方の人生は?」

「今と変わらず、大木のような侍のそばで、佇む者にすぎませぬ」

兵吾郎は苦笑いを浮かべた。

「されど、最後の最後に大役を仰せつかったんでさぁ。和尚、和尚を信じて話す。他言は無用で。お約束いただきたい」

和尚は目を閉じて頷いた。

「¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬¬どうしたのじゃ。そんな土産などさげて」

兵吾郎は力無く笑う。

「和尚、京本能寺で織田信長様が、明智光秀様のご謀叛によって殺されたんで」

和尚はそれだけ聞くと『まさか! その首がそうか!』と言わんばかりに目を丸くして腰のものに目をやった。

「な、なんじゃと!」

「オイラ、和尚に字を習ったおかげで、信長様の側で仕えておったんで、オイラもたまたまその場に居合わせてしもうて……」

和尚は悲痛の色を浮かべる。

「富嶽の見えるところに埋めてくれ、そして敵に絶対に渡すなと、それが信長様の遺言でさ。オイラにはどこがよいか、さっぱりわからんで、その時、ここの古代樹の森を思い出してきてみたんでさ。和尚、どうか、このことは内密に。そして、ここのどこかに埋葬させてほしいんでさ」

和尚は笑顔で頷いた。

「そういうことならここはええ。山に囲まれ、滅多に人は来んしなぁ。どうじゃろう、兵吾郎。あの本堂の裏の古代樹の森に埋葬するは?」

「あの巨大な樹木が、信長様の墓標というわけか。そりゃあええ」

兵吾郎は胸をなで下ろす。そして、和尚に従って兵吾郎は本堂裏へと向かった。

兵吾郎は本堂裏の古代樹の森に少し入って、ちょうど樹木の裏あたりで首が入るくらいの穴を掘った。白い布に包みんだ信長の首級を、ゆっくりと腰から外して、地面に置く。両膝をついた兵吾郎は、その信長の首級に向かって平伏した。そして和尚も同じくしゃがみ込んで、お経を唱えるのだった。兵吾郎は信長の頭の上の結び目をほどいて、布がサッと広がり、信長の首が露わになった。その刹那、二人は仰天して腰を抜かし、血も凍るような戦慄に襲われた。なんと布で強く結びつけていたせいか、両頬の肉が持ち上がり、瞼が開いていたため、白眼むいた鬼の形相が現れたのだった。

信長の首は、なんともおぞましい醜悪な物怪の首と化していた。

「な、なんと恐ろしや、恐ろしや……。よほどの無念、怨念がこの首には取り憑いておるぞ。わしらを呪うやもしれん。兵吾郎や、ここに柊を植えよう。柊は魔除けの木と言われておってなぁ。この葉をみよ。柊の葉には棘があるじゃろう。昔から柊にイワシの頭を突き刺して節分に飾る風習があるんじゃ。鬼は柊の棘と、イワシが嫌いとされておるのよ。それで鬼を追い出すと言われておる。埋葬した上に柊を植えることで、信長様も成仏されようて」

「……」

兵吾郎はひきつった笑顔を見せるのだった。


                   *


兵吾郎は由己に向き合って答えた。

「信長様は富嶽を見たいとおっしゃった。もうこの世の政治の道具に使われたくはないんでさ。オイラ自分の墓まで持ってくつもりなんでさ」

由己は悟っていたかような表情で答える。

「そうだろうさ。でなければ既に明らかになっとる。正直、わしも謎のままでよいかと思うておる。理由は同じじゃ。それに政治的に利用するなら、別に信長様の首級でなくともなんとかなろうて」

兵吾郎は顔をしかめる。

「それはどういう……」

「まぁ、今は言うまい。秀吉様へは上手くわしが言いわけしとくわい。それはそうと、信長様は第一報で既に明智光秀の謀反と確信していたようだが、なぜ早々に……。信長様と光秀の間に一体何があったのじゃ?」

兵吾郎はその刹那、眉間に皺を寄せて顔色を曇らせた。

「あの日、本能寺で信長様が死んだ日からほんの五日前になりやす。光秀は運が悪かったとしか言いようがありやせん。何かが偶然重なりあうことが……、通常起こり得ないような不幸があの日、たまたま起こったんで。あの日、信長様と面会後の光秀様は、みるも無惨な様子でありやした。信長様の怒りは凄まじく、安土の天主からは聞いたこともない悲鳴と怒号が飛び交い、光秀は口からは血が流れておりやした。それ以上に、誰かわからぬほど激怒のあまり顔を赤く染め……、鬼の形相とはまさにあのことで」

由己は一瞬言葉の意味がわからず、

「その鬼の形相とは信長様のことか?」

兵吾郎は光秀の生首へ怨念を込めて視線を投げ、ゆっくりと首を横に振った。

「いいえ、光秀でした」

由己は思わず固唾を飲んだ。

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