第24話 信長の最後 (3)

常の間を出てすぐに裏口があったので、兵吾郎は信長を担いで裏口を出た。そのとき、先ほどの女中が血だらけの信長を連れ出そうとする兵吾郎の姿を、目撃していたのである。兵吾郎は明智兵が丹波口から侵入したと聞いていたので、反対側の栗田口へ急いだ。周りをキョロキョロと、警戒の視線を投げながら先を急いだ。

立ち並ぶ家々の格子戸から炊煙が立ち上がってはいたが、まだ外を出歩いている町衆はいなかった。通りはまだ閑散としていた。

兵吾郎は、あらゆる方向に視線を配りながら、先を急いだ。途中ちょうどよい雑木林があり、その中で身を潜めた。

まだ夏虫が鳴く静謐な夜だったが、徐々に東より陽がのぼりかけていた。そして確実にその頃には本能寺に火の手が上がり、黒煙が上がっていた。

兵吾郎は頃合いだと見計らい、信長を草むらに寝かして馬乗りして、短刀の柄を握り、切っ先に、もう一方の手のひらを押し付けて生首を摘もうとする。手に伝わるおぞましい感触に恐怖し、短刀をつい放してしまうが、思い直してさらに力を込めて摘んだ。首がガランとあらぬ方向へ転がった。

「ヒィィ!」

兵吾郎は思わず悲鳴をあげる。サッと頭を上げて周囲を警戒するが、明智の雑兵が迫り来る気配はなかった。

「ハァハァハァ……、おいら……。の、信長様、畏れ多いことを……」

血も凍る恐怖と戦慄で狂気に取り憑かれていた。息を切らしながら、兵吾郎は何度も何度も周囲に鋭い視線を投げ、警戒する。

「誰もいないな、くるなよ。誰も……」

声を殺してブツブツと念仏のように唱えるのだった。そして燈篭用の菜種から搾取した油を懐に忍ばせていたのを取り出し、信長の首無し屍体にふりかけた。兵吾郎は信長の生首に平伏し、手を合わせるのだった。

「畏れ多い事を……、畏れ多い事を……」

そして火をかけたのである。たちまち黒煙があがったが、ちょうどその頃、東の空も明るくなり、本能寺の常の間からも火があがり、そして京の町は朝支度で各家の格子戸から炊煙が立ち上っていたのだった。

雑木林から怪しい煙が立ち上がっていても、京の朝支度の風景に溶け込んでいたため、誰も怪しむ者などいなかったのである。兵吾郎は信長の首無し屍体が、炎に包まれたのを見届けると、首級を白い布に包み、右腰につけて駆け出したのだった。それはまるで大きな茶壺のようにみえるのだった。雑木林の木陰から警戒の視線を四方に投げる。

————煙が上がっている以上、誰かが勘付くかもしれない。

————早く離れなければ……、されど誰かが見ているやもしれぬ……。

心忙しい兵吾郎は、意を決し駆け出した。周囲を警戒しつつ、栗田口へと急いだ。

仄暗い物陰から様子を伺う。兵吾郎は愕然とせざるを得なかった。信長は既に四方を取り囲まれ、逃げきれないと判断していたが、兵吾郎が見る限り、検問もなく、何かあるのか、と疑いたくなるくらい何もなかったのだ。恐る恐る栗田口に近付くが、やはり何もなく、兵吾郎は悠々と京から脱出するのだった。

————もしこのことに気付いておれば、本能寺で切腹することはなかったやもしれぬ!

「こ、こんなことがあってよいのか……、信長様……」

兵吾郎は弱々しくつぶやいた。栗田口を抜けた峠から京の町を見下ろしていた兵吾郎は、信長が明智光秀という名だけで死を悟らせた事実に打ちのめされる。そして自身が腰にぶら下げた信長の首をその光秀が何よりも欲しているものだと気づき、そこいらに埋めて逃げてしまいたい気に襲われる。あの光秀がこの首を奪うために自身に追手を差し向けている。そう考えるだけで底知れぬ戦慄を覚える。

 ———兵吾郎、予を富岳の麓にでも埋めてくれ。頼んだぞ!

脳裏に信長の声がこだまする。ガクガクと震える膝をしっかりしろとばかりに拳で叩く。そして、燃える京に背を向けて駆け出した。ふと兵吾郎の脳裏に信長の非業の死が断想となってちらつき、まんまとしてやったり! と軽薄な笑みを浮かべる光秀の幻想が現れる。兵吾郎は、はらわたが煮えくり返る思いだった。その度に何があろうともこの首級は守り通すと心に誓うのだった。


                   *


由己は大きなため息を漏らす。そして神妙な面持ちでつぶやいた。

「やはり、信長様は包囲される前に察知していたのか」

天を仰ぎながら、兵吾郎は嗚咽を漏らすのだった。

「今思えば、まだどうにでもなる状況だったが、やはり信長様ともあろうお方でも、気が動転し、判断を早まったのだろうと思えてなりやせん。オイラは仲間の状況が知りたくて京へ引き返してきやしたが、京の町衆は信長様が早々に切腹してしまったことでほとんど何も知らなかった。話題は信忠様の死闘ばかり……」

兵吾郎の光秀の生首を見つめる目に怒りが宿り、竹の柵を握る手が震えていた。

「信長様は、オイラのような虫ケラにも、優しいお言葉をかけてくださった。この右頬の傷を戦場で負った時も声をかけてくださった。いつも携帯されていた塗り薬を塗っておけと気にかけてくださったのだ。あれほどのことを成したお方が死華も咲かせず、あまりにも無念の死。御労しい限り……」

兵吾郎はうつむき、咽び泣くのだった。

「そうか、それ故に信長様に死華を咲かせるために、噂を広めようとしたというわけか。たまたまその場にわしが居合わせたということか」

「オイラができるご恩返しはこれくらいのもんで」

————由己、滾(たぎ)るやつを頼むぞ。滾るやつを……。

由己の脳裏に、秀吉の言葉がふとよぎった。

————なるほど、信長様が早々に切腹して果てたとしか噂していない民衆からすれば話題となろう。

と由己はそんなことを、考えていたのだった。

「おぬしの想い、わしが引き継いでもよいか?」

兵吾郎はその言葉にハッとして由己を見つめた。

「それはどういう意味で?」

「わしは其方の信長様の死華こそ、京町衆の血が滾る話じゃと思う。わしが書く軍記物語に信長様の死闘を書こうぞ。さすれば信長様も成仏してくれようて」

「旦那……」

兵吾郎は顔をほころばせるのだった。

「これで軍記物語は書けそうですかい? 旦那」

「大体はな。が、まだわからぬことが二つある。おぬしは信長様の首級をどこかへ埋葬して京へ戻ってきた。その場所を言わぬか? 秀吉様より調べるよう言われとってなぁ」

兵吾郎は生首から由己へ視線を移すと静かに首を横に振るのだった。

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