第23話 信長の最後 (2)

まだ、闇があらかたを覆う東雲(しののめ)の刻、本能寺の東門がギィと気味の悪い軋みを立てて開門した。自然に開いたのではなく、外部から侍が本能寺へ駆け込んできたのだった。

「うん?」

信長のいる常の間近くにいた兵吾郎は何か遠くの方で物音がしたのに気がついた。まだ誰もが起床前で、時間を持て余していた兵吾郎はなんとなく表の方へ様子見に行ってみた。すると何やら使者が到着したらしいということがわかった。

その侍は心落ち着かずといった様子で、額に汗を浮かべながら、一目散に本堂へ駆け上がり、障子を開ける。

その音に反応して、蚊帳の中で寝入っていた侍が、目を覚まし跳ね起きた様で、

「何用か!」

静謐な本能寺に声が響く。兵吾郎が聞き耳を立てなくても十分声は届いていた。

「か、火急の知らせに。急ぎ殿にお知らせせねばならぬことが……」

蚊帳で寝ていた侍の話し声から由々しき事態が起こった事を感じ取っている様子が声色でわかった。聞き耳を立てる兵吾郎も何かあったのかと胸騒ぎを覚える。

「主殿へいけ。蘭丸様へご報告申し上げろ。急げ!」

「ははっ」

主殿へ移動したその侍は、入り口の障子の外から声をかけた。

「もし、蘭丸様、もし」

蘭丸が屋内で跳ね起きて、障子をガッと開く。

「どうした。何事じゃ!」

「ははっ。申し上げます。丹波口付近に、軍兵が集っております。足半に履き替え、火縄に火を入れるところを確認した次第」

「どういうことじゃ。まさか謀反か。何奴じゃ。旗印は見たか」

「ははっ、桔梗紋にて」

蘭丸の横顔しか見れなかったが、顔面蒼白となり、声色が驚愕のあまりやや震えていた。

兵吾郎はそんな蘭丸と使者の会話の様子を何事かと覗き込んでいた。そして蘭丸が血相を変えてこちらに向かってくるのに気付いた。

蘭丸は寝ずの番の兵吾郎に気づいていたが、かまっている暇はないとばかりに無視して常の間の障子の外から信長に声をかけた。

「殿、殿、御免!」

蘭丸は障子を開ける。信長は起きて蘭丸を見つめる。

「殿、丹波口に兵が……。戦闘態勢を整えているよし」

兵吾郎はその時、蘭丸の後ろに控えて様子を伺っていた。

「謀反か。何奴じゃ。奇妙の奴じゃなかろうな!」

信長がまず疑ったのは、幼名を奇妙丸の信忠だった。信忠は信長が急遽京へ滞在することになり、信忠も堺での茶会の用事を流会にして、上京していたのだ。

「上様、桔梗紋にござりまする」

「……。光秀か!」

信長は眼玉をガッと剥いて虚空を見つめ、呆然と立ち尽くしていた。突如死の淵に追いやられた状況に、蒼白く変色する信長の表情には哀れなほど悲壮感が滲んでいた。

そんな信長をよそに、本堂や主殿で寝ていた侍たちが常の間に集っていた。第一報を持ち込んだ侍のただならぬ空気が、サッと広がり、何事かと皆起き出したのだった。

そこへ第二報が飛び込んでくる。

「上様、軍兵が丹波口より進軍中! こちらに向かっておりまする」

狂乱したような眼差しとは裏腹に、信長は弱々しく言葉を吐き捨てた。

「……仕方なし。予は自ら死を招いたようじゃ」

蘭丸が力強く声を掛ける。

「殿、落ち延びてくださいませ、お早く……」

信長は蘭丸の声にハッと我に帰った。

「正気か、蘭丸。狡猾な奴のことだ、すっかり囲んで、蟻の這い出る隙間もありゃあせんわ。……よい。光秀の思惑通りにはさせん。蘭丸、介錯せい。兵吾郎!」

突如呼ばれて慌てての開け放った障子の外から頭をひょいと上げた。

「へえ」

「おう兵吾郎。我が首を敵に渡すこと許さぬ。よいか、この本能寺、いや京の包囲網を突破し、我を逃せ!」

兵吾郎に下知すると信長の顔がほころぶ。

「甲州征伐からの帰陣の折に見た富岳は格別じゃった。兵吾郎、予を富岳の麓にでも埋めてくれ。頼んだぞ!」

兵吾郎はじめ、御側衆はあまりの事態に、いや急速に展開されていく事態について行けずにいた。ただ信長だけが冷静に決断していたようにみえていた。しかし、結果的にはその信長も気が動転していたのか、それほど刻一刻と迫る軍兵に焦っていたのか、早まった決断を下していた。

「うぬらには世話になった。後は頼んだぞ。蘭丸と兵吾郎以外は外せ」

「ははっ」

信長は皆が出ていったのを見計らい、枕元の短刀を手にすると、上座にて両膝を突き、白い着物の前をはだき、その短刀を置いた。

目の前で忙しなく過ぎ去る光景に、兵吾郎の胸には、ぽっかりと大きな穴が空いた様に思えた。

————こんな敏速に死を受け入れられるものなのか。

————一体これはどういった事態なのだ。これからどうすれば……。

兵吾郎は呆気に取られていた。その時だった。障子が開けっぱなしになっていた隙間から女中が中を見ていた。

「きゃっ!」

女中は、信長が倒れたと勘違いしたのか、こちらに駆けつけようとする。兵吾郎はその声にハッと意識を取り戻して、サッと障子を閉めた。

信長はゆっくりと鞘から抜き、白刃を腹に添えた。

「ふうん!」

一気に短刀を握る手に力を入れ、腹に突き刺した。

「ぐっぐぐぐ……」

声のない悲鳴をあげ、酷痛の余り左肘をつき、そのまま倒れ込んだ。そして血溜まりが広がり、信長の白い着物が血に染まっていくのだった。

蘭丸は信長が前のめりに倒れたために、首をはねられず、短刀を心の臓に突き刺して絶命させた。

兵吾郎はあまりの戦慄に驚きを通り越して逆にこの状況に呆れてしまっていた。老若男女、宗教という聖域すら認めず、徹底的に殺戮し、日の本の大半を平定し、第六天魔王と畏怖された男の死にしては、あまりに静かすぎる死だったからだ。

呆然と血に染まる信長を見つめる兵吾郎をよそに、蘭丸は冷静を装いながら、常の間のそこら中に油を振り撒いていた。

「兵吾郎、しっかりいたせ! 信長様を担いでここから出よ。拙者はここに火をかける。そちはどこでもよい、信長様を担いでまずは裏口からいでよ。そこらの雑木林で首級をとった後は、油をまいてご身体を焼くのじゃ。そして逃げよ!」

蘭丸は、信長の死を目の前に、茫然とする兵吾郎に叱咤する。

「おい、兵吾郎! 聞いておるのか! 兵吾郎!」

兵吾郎は無理やり目を覚まさせるように、少し頭を左右に振って蘭丸を見つめた。

「ははっ! 畏まりました。して蘭丸様は。もうすぐ明智軍に囲まれまするが……」

蘭丸は何を愚問をと言わんばかりにせせら笑い、

「信長様をここから逃すためには刻が必定。拙者はここで死華を咲かせようぞ。じゃが其方は違うぞ、兵吾郎! 其方は生きて信長様を逃すが仕事よ。いけぇ!」

兵吾郎は蘭丸から目を背けた。なぜなら、無理やり死を突きつけられ、悲壮の色が滲む蘭丸の顔を見ることができなかったからだった。

「ははっ、蘭丸様、お世話になりやした。これにて御免」

兵吾郎はまだ温かい信長の屍体をなんとか担いで常の間を出た。

「おお、いけぇ!」

蘭丸は感慨深い目で見送るのだった。

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