第29話 光秀の老ノ坂 (2)
天野源右衛門は小首をかしげながらも、自軍に戻り先を急いだ。天野源右衛門は自身の家中に指示を伝達する。
「おい、これより丹波口へ向かい、我が軍は京本能寺に夜襲をかける。そのため我らは先行して、敵に知られぬよう邪魔者を取り払う露払いをするのじゃ」
「え、京で?」
「わしと同じことを言うな! わしとて難しいことはわからん。とにかく露払いじゃ」
先行した天野隊は先陣の斉藤利三隊を追い抜く。そして丹波口付近の瓜畑で、既に働いていた農民を発見する。
「おい、あの農民どもが騒ぎ出すと厄介だ! 斬れ!」
「ははっ」
瓜畑で野良仕事を始めようとしていた農民が、明智軍を唖然とした表情で眺めていた。ただ、抜刀した雑兵数名が向かってくることに違和感を感じて慌てふためいている様子だった。その悪い予感が的中したことを悟った農民は、血相を変えて逃げ出した。
天野隊は、殺気を刀に宿して農民を追いまわす。
「な、なんじゃぁ、わしらぁただの農民じゃ……ぎゃあああ」
「斬らんでくれぇ……ぎゃああああ」
突如、抜刀した雑兵に追い回されて顔面蒼白な農民を次々と串刺しにする。その雑兵が刀についた血を払って鞘に納めながら、天野源右衛門に報告する。
「殿、全て殺しました。あの丹波口付近にいる斉藤利三隊が、今の声を聞いて騒いどりやすが……」
「見方同士の斬り合いになってはいかん、おぬしは利三様へ知らせに行け。別の者は京へ入り、野良犬も殺しておけ。よいか、いけ!」
*
天野隊が先行していく頃、老ノ坂の光秀は、重臣を呼び集めていた。光秀が腰かけていた岩を取り囲むように、明智秀満、明智光忠、藤田伝五、溝尾茂朝、斉藤利三が地面に座って談合していた。
光秀は閉じた目をガッと見開いて決意を口にするのだった。
「よいか、心して聞け! ……これより備中高松へはいかず、丹波口に向かい、京本能寺を目指す」
家臣は顔を見合わせて頭を傾ける、斉藤利三を除いては。
「本能寺におわす信長を誅し、わしが天下に号令をかける。その方らの命、わしにくれ!」
そういうと光秀は家臣に頭を下げた。
「な、なんと!」
「え、と、殿それはどういう……」
「……」
重臣たちは、突如、謀反を口にした光秀に驚きを隠せないでいた。
「殿、顔をおあげなさいませ! それがし、殿こそ、天下に号令すべきお方と信じておりもうす。我ら家臣、殿の御決意を聞いたからには、後には引けませぬ。身命を賭してお支えする所存でござる」
そういったのは、やはり斎藤利三だった。利三にそう言われて、他の者は何か異論を言えば斬られるような空気が張ったことを敏感に感じ取っている様子であった。
「我ら、殿に従うのみにござる」
「殿、それがし、先陣にて本能寺を焼き払ってご覧に入れまする」
「利三、皆、後悔はさせぬ。全てが片付けば、よい思いができるよう取り払うつもりじゃ。わしが信長より受けた恥を濯がせてくれ! これより、備中ではなく、京本能寺へ進軍じゃ。よいか、丹波口から軍を四つに分けて本能寺を取り囲むように京の町を進軍するのじゃ。既に天野隊がその露払いをしとる。狙うは信長の首、ただひとつじゃ!」
「ははっ」
光秀は、家臣が自陣に散っていくのを見送っていた。おそらくこの数日に起こった事件が原因だろうということは、家臣達は容易に想像できたのだろう。私怨にも関わらず、何も言わず光秀に付き従ってくれたことに涙が出る想いだった。だからこそ、そんな家臣の命を粗末に扱うことにならないか躊躇する情を拭い去ることができなかった。光秀の中で燃え上がった業火の勢いが陰り、だんだんと下火になる。
————果たしてこれでよかったのか?
迷いが晴れることはなかった。
今光秀はちょうど岐路に立っていた。右に折れると摂津街道を通り、山崎へ抜けて西国街道を通って一路備中高松へ向かう。そして道沿いに行けば京への入口にあたる丹波口に出ることができた。
————ははっ、それがし、何事があっても乱世を生き抜き、明智の血を絶やすことがないよう努めまする。それゆえ、父上は後ろを振り向かず、存分な御働きを!
光秀に十五郎の言葉が蘇っていた。そして最愛の妻煕子に瓜二つの十五郎の笑みが脳裏をよぎる……。その刹那、火柱があがった。暗闇の中、兜の奥から放たれた醜悪な殺気がメラメラと波打ちながら這いずった。
激しく踊る狂炎をうちに秘めた光秀は、備中高松への怪に背を向けて一路丹波口に向かい、京本能寺を目指したのである。
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