第30話 季節外れのバッタ (1)

青々とした空には、風に乗って羽を大きく広げた鷹が旋回しながら飛んでいた。小五郎は西光村の原っぱの丘に立つ大きな木の幹に、もたれかかって空を眺めていた。その小五郎の顔色は、そんな空とは違って分厚い暗雲に覆われていた。

目覚めが悪かった。夢の中で見た久しぶりの父の姿が脳裏に焼き付いていた。小五郎にとってそれはもはや父ではなく、白い顔料で塗った不気味な人形のように見えたからだった。



小五郎はいつものように何かするわけでもなく、村の中央の原っぱの丘に立つ大木を背に座っていた。すると背後に気配を感じて、振り返ると、目の前に武装した武者の佩楯(はいだて)(太ももを保護する鎧の部位)と脛当てが目に入った。ギョッとして見上げると、それは父上であった。小五郎は仰天して、その場に立ち上がる。

「ち、父上! 父上ではござりまするか! ご無事でのご帰還、嬉しゅうござりまする!」

小五郎は涙で顔を濡らしながら、その武者に抱きつくのだった。

だが、その武者はピクリとも動かない。それどころかよく見ると顔色は蒼白く、人形のような冷たい眼をしていた。それはまるで亡霊のようでもあった。

「父上! 父上!」

小五郎は何度も揺さぶりながら呼ぶが、まるで反応がなかった。そして何の気なしに自分の手の平を見ると、そこにべっとりと血がついているのであった。

「父上! お怪我を! ち、父上!」

だが蒼白い顔の人形の眼は瞬きもせず、虚空を見つめるのみだった。

「父上! それがしは、なぜ一人なのでござりまするか?」

しかし、その武者は何も答えず、口から血が垂り落ちる。そしてその武者はスーッと遠退いて行くのだった。



そこで小五郎は目を覚ましたのだった。

————あの夢はなんだったのか? 

いつか父上は迎えに来ると信じて既に数ヶ月。父が多忙で姿を見せないことなどこれまで幾度となく経験してきた。小五郎は今回もいつもと同じだと言い聞かせてきた。ただ、これまでとは違って居城の坂本城が焼け落ちていた。これほどの敗戦は経験がなかった。父上が生きているのかどうかさえ、わからない。

————あの夢の父上はどう見ても……

小五郎は脳裏に浮かぶ情のない人形のような父の顔を振り払うかのように頭を振るが、どうしても脳裏には『死』という言葉がぼんやりと浮かぶ。その度に小五郎は父上との思い出に逃げ込むように必死で回想する。父上は生きている。気難しい父上のことを家臣が陰で悪様に言っているのは知っている。だが、少なくとも小五郎の前ではどこか柔らかな優しい表情を見せてくれた。

————腰を落とせ! おお、強くなったなぁ。

ヒョロッとした体格の小五郎は、相撲が苦手であったが、父上は気合云々ではなく、勝つ方法を授けてくれた。そのおかげで簡単には投げられなくなったことで何事にも精通する父上が小五郎の眼にはいつも大きく映っていた。何より強くなった姿を見せると、家臣などの目を気にすることなく、体全体で大喜びする姿を見せ、屈託のない笑みを見せてくれる。その微笑んだ口にはいつも笑窪ができた。小五郎は妙にその父の笑窪を見ることが好きだった。

————おぬしが大きくなれば、この丹波を納めるのじゃ。それには強くならねばならぬぞ! それに勉学にも励むのじゃ。

父が小五郎をみると口癖のように言っていた言葉が蘇る。

「父上、その言葉はもう聞き飽きました……」

ふと言葉が漏れ、笑みがこぼれた。その刹那、蒼白い亡霊のような父の顔がパッと一瞬、目の前に残像がよぎる。

————なぜ父は消えてしまわれたのか? 

————一体どこへ? 

次々と不安と恐怖が蘇り、そのことが小五郎に暗い影を落としていた。確かに父が出陣する日、いつもと違って神妙な面持ちだったことが、今更ながら気になっていた。そして山崎で敗戦した日、全てはあの日からはじまった。小五郎は坂本城落城の夜のことを思い出していた……。



「十五郎様、落ち延びてくだされ。もはや、これまでにござりまする。攻め手は堀秀政にござりますが、女子供には手は出しませぬ。さぁ、十五郎様、この衣服にお着替えくだされ」

明智秀満は坂本城の落城を十五郎に伝える。そして変装用の農民のボロ布のような小袖を用意していた。

「あい、わかった。して其方も一緒に落ち延びよう」

十五郎は秀満に言う。

「それがしは光秀様よりお預かりした、この城を守る義務がござりまする。ご一緒は叶いませぬ。この城は明日、落城するでしょう。それがしは隙を作りまする。それゆえ、一刻も早く城を抜け出し、お逃げくだされ」

坂本城の天主に火矢が浴びせられ、焦げ臭い匂いが辺りを覆い、攻め寄せる雑兵の奇声がだんだんと近付いていた。恐怖に凍りつく十五郎には留まるという秀満の言葉を受け止めきれずにいた。逃げなければ死ぬのは確実であることは十五郎にも十二分に理解できた。それがわかっていながら逃げない秀満が信じられなかった。わざわざ死ぬことはなかろうというのが素朴な思いだった。

「おぬし、それでは死ぬではないか! 落ち延びようぞ!」

十五郎のまっすぐな眼差しの言葉に、悲壮な顔を見せる秀満が少しほころんだ。

「十五郎様、お心遣い痛み入りまする。されど武士は命賭して立ち向かうべき刻があるかと存じまする。それが今と心得ておりまする」

秀満は十五郎を前に跪(ひざまず)き、満面の笑みを向ける。

「十五郎様、生きてくだされ。それこそ、それがしを生かすことになりまする」

それだけ言うと、秀満は十五郎に背を向けて立ち去った。

十五郎は、まだ意味を完全に理解できず、その後ろ姿をただ黙って見送る以外できなかった。

それから間も無く、歴史ある宝物が灰になるのは忍びないと、秀満より堀秀政へ引き渡しが行われた。攻め手は城から次々と運び出される宝に目が眩み、包囲網に隙が生じた。その隙に十五郎は従者数人と城を抜け出した。

猛獣が遠吠えする薄気味悪い暗闇の中、いつ襲われるかと怯えながらの逃避行だった。

「それがしはどこへ向かっておるのじゃ」

「父君のお母上様の下へ向かっておりまする。岐阜と美濃の国境にある田口城より北上した山中と伺っておりまする。そちらにお連れ致しまする」

夜が明けて朝になり、そしてまた夜を迎える。十五郎は草鞋も履き切り、裸足であった。また食糧も底をつき、草を食い、川の水で喉を潤した。そして、朝を迎えるたびに従者は一人、また一人と神隠しのように失踪していった。唯一の味方のはずの従者が、どんどん姿を消す現実に、十五郎はなぜ儒者が次々といなくなるのか、まだ理解できず、奇怪な出来事に、冷たい手で背筋を撫でられるような恐怖を感じていた。この神隠しの事変は、十五郎の胸の奥に突き刺さり、視界の風景色がバラバラと剥がれていく感覚に襲われた。

「なぜじゃ? なぜ次々と従者が神隠しに遭うのじゃ? どうなっておるのか」

不安に駆られる十五郎が愚痴をこぼすも、誰も答えられないでいた。

————殺されるか?

————目が覚めれば一人やもしれん……。

そんな耐え難い恐怖と、誰もいなくなる不安と寂しさで、十五郎の目はうつろとなり、頬は痩けて歩く骸と化していた。そして、のっぺら坊の亡霊のように表情が消えていた。

そうしてついに廃寺となっていた西光寺の庵に辿り着いた時、従者はたったの一人となっていた。

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