第32話 恐怖の爪痕 

山崎城の主殿の木の香りに包まれて、由己は秀吉が来るのを待っていた。この城は山崎の合戦後、清洲会議にて柴田勝家との敵対が決定的になったのを踏まえ、京に近い要所に居を構えたい秀吉の意向で整備された城だった。

既に本能寺で信長が死んでから三ヶ月ほど経っていた。天正十年九月秀吉は、信長の葬儀を大徳寺で執り行う準備のため、再び京に近い山崎城に滞在していた。

本能寺で何が起こっていたのかを調べ上げた由己は、軍記物語の制作に精を出して、この度完成したことを秀吉に報告しにきたのであった。

例のごとく、遠くの方からドカドカと、思いっきり無礼な足音が近付いてくる。由己は居住まいを正して平伏して待つのだった。金箔の襖が開いて秀吉が上座にドカッと座り込んだ。

「おぉ、由己。しばらくじゃのう」

「上様、この度、清洲会議では独壇場であったとか、まずは執着至極に存じます」

「おぉ、これで当初の予定通りじゃ、由己。来月の信長の葬儀で事実上天下人宣言じゃ。そこでじゃ。完成したか? 由己」

「ははっ、題して『惟任退治記』になりまする」(惟任とは光秀のこと) 

「ほほぅ、なかなかわかりやすうてよい題じゃのう」

「ありがたき幸せ」

「して内容はどうじゃ? 読んで聞かせてちょおよ」

「ははっ」

秀吉は文字の読み書きができないため、由己はいつも読み聞かせていた。由己は、斎藤利三が長宗我部元親を四国征伐の餌食から救おうとしたことを伏せ、光秀の謀反の動機を、天下を狙った大悪党、としていた。また、信長が本能寺で死闘を繰り広げて、死華を咲かせるよう書き加えていた。

それらを聞いて秀吉は怪訝な色をみせ、首を傾けた。

「由己、其方はそれが本能寺のまことの真相じゃというのか。わしゃ、斎藤利三の首を刎ねる前に大体の仔細は知っておるが、随分と違うぞ。あの時、信長と光秀の間で諍いが起き、天主の上から光秀の附髪を投げ捨てたのが原因じゃろ! そっちの原因の方がウケはよいぞ。酒の肴になるわ!」

そう言うと、秀吉は下品にゲラゲラと大笑いする。

由己は神妙な面持ちで言葉を返す。

「確かに笑い話になるかと思われまするが、光秀を辱めてはなりませぬ」

秀吉はさらに首をひねる。

「なぜじゃ、あやつは極悪人の謀反者じゃにゃあか!」

「敵を辱めてはそれによって、命を落とした信長様をも辱めることになりまする。ひいてはその光秀を撃った上様をも! それでは敵討ちの価値が下りまする」

秀吉はハッとした表情を浮かべる。

「なるほど、それで光秀を、天下を狙った大悪人、としたのじゃな!」

「ははっ、左様で。天下を狙った大悪人を上様が退治する、という構図がよろしいかと。それだけではござりませぬ。光秀を私怨で謀反した小物にするより、天下を狙った大悪党に仕立てたのには、どこぞで息をひそめる光秀への警告の意味も含めてござりまする。上様は常々、光秀の首が偽首やもしれん、とお悩みだったと推察致しました。されば、光秀を『天下を狙った大悪党』に仕立てて、附髪の件は忘れるゆえ、黙って死んでおれ! さもなくば、再び大捜索してその首を刎ねる、という警告になりまする。これで光秀が生きていたとしても、ひっそり身を隠すのみで、表舞台には出てこれまいかと」

「やつに味方するものは現れぬか?」

「天下を盗もうとした不忠者に味方して得する者などおりませぬ。上様に大軍を差し向けられて滅びるのが関の山でござりまする。それゆえ、ご心配はご無用かと」

秀吉は笑顔で大きく頷く。

「よい。そちのその案を受け入れようぞ。されどじゃ、信長の立場上、さすがに雑兵相手に斬り合うっちゅうのは、どうも現実離れしすぎじゃにゃあか?」

「そうではござりませぬ、上様。京の町衆は、信長様を畏怖しておりまする。そんな信長様が何もせずに、さっさとお腹を召したなど、例えそれが真実であっても、そんな話には誰も興味を抱きませぬ。そんな軍記物語を読み聞かせても話題にはなりませぬ。やはり信長様は、槍や弓を持ってバッタバッタと敵をなで斬りにして、死華を咲かせたのでござりまする。それが町衆の声にござりまする。町衆はさすが信長様じゃと噂するに相違ありませぬ。そしてその憎き光秀を撃って敵討ちしたは、秀吉様じゃ! となりまする」

秀吉は上機嫌になっていた。

「確かに、おみゃあさんの申す通りじゃわ。さすがじゃのう、由己」

「ははっ、お褒めに預かりまして……。しかし一点わからぬこともござりまする」

秀吉は、由己の疑問に興味を抱いた様子で、

「ほほう、そちでもわからぬことがあるか? なんじゃ、そりゃ? わしでわかることなら教えて取らすぞ。聞かせてちょおよ」

「ははっ、ありがたき幸せ。では、此度の光秀の乱心、原因は附髪ではありまするが、遠因は別にありまする」

「ほほう……」

秀吉が意味深げな笑みをこぼす。

「遠因は昨年末の談合にて、長宗我部元親がお見方であったはずが、方針転換があって、敵に変わったことでござりまする。惟任退治記には、そのことは触れておりませぬ。それは長宗我部を無駄に刺激して、四国に敵を作るのは得策ではないかと思えたからにござりまする。この長宗我部の問題には、堺の代官松井友閑が深く関わったとのこと。されど、なぜ突如そのようなことを言い出したのか、腑に落ちませぬ」

秀吉が下品に大笑いする。由己はなぜ秀吉が笑い出したのか理解できず、目を丸くする。

「いや、すまん、すまん。ありゃ、わしが言うたのよ」

由己はギョッとして、たじろいだ。

「な、なんと……」

秀吉の眼の奥が怪しく輝く。

「友閑の奴に相談されたのよ。彼奴は堺の代官での、堺は元々三好家ゆかりの地じゃ。当然、三好康長とも交流があるのよ。当時、信長の覚えめでたい康長が、長宗我部元親の前に風前の灯火になっておったのよ。そこで康長は友閑に働きかけて、信長の方針を変えてくれと言ってきたらしい。されどじゃ、彼奴はそんな玉じゃにゃあのよ。信長は一旦言い出せば終わりじゃ。絶対に変えん。それがようわかっとったのよ、友閑は!」

由己は聞いてはならぬ事を聞いてしまったと今更ながら、気が付いたが後の祭りだった。額から冷たい汗が垂り落ちる。

「でな、どうすりゃあええかって相談してきたのよ、わしに。じゃから言ってやったのよ。そこは強気でいけ! 長宗我部は敵じゃ、天下統一の妨げじゃと言ってやれって。友閑は堺の代官という力を理解しとらん。堺は富と鉄砲の山じゃ。信長はそれが喉から手が出るほど欲しかったのじゃ。じゃからある程度堺の声には耳を傾けるのよ。じゃから信長は無視できんかった……っちゅうわけなのよ」

「そ、それでは上様は全てお見通しで……」

秀吉はまたもや下品に大笑いしながら、

「当たり前じゃ……。面白き世になったじゃろう!」

驚愕の色を隠せない由己は、いつもの癖で備忘録帳を懐から取り出してサラサラと筆を走らせた、その時だった。

秀吉は上座から由己へ向けてダダタッと突進してきて、由己の書き付けする筆を叩き落とした。

ハッとした由己は顔をあげると、秀吉がこれまで見たことのないような鬼の形相に変貌していたことに、その時初めて気がついた。そして声を殺しながら、由己の顔のそばで凄んだ。

「やめよ……。おみゃあ、わしを脅すんか!」

由己の顔から血の気が引いていくのがわかった。

「め、め、滅相もござりま……」

由己が言い終わらないうちに、秀吉の声がかぶる。

「よいか、内密にする方法は二つある。何かに残さないか、秘密を知る者を殺すかじゃ。おみゃあは、わしの懐刀じゃ。そうじゃの!」

語尾で凄む秀吉の眼から、おぞましい殺気が放たれていた。由己は声を失い、ただ震えながら頷くのみだった。

「して由己、信長の首級はどこじゃ」

「は、ははっ、それにつきましては、それがしにもわかりませぬ。申しわけござりませぬ。お許しを……」

由己は深々と頭を下げた。

秀吉は平伏した由己をじっと睨みつける。

「ほほう、そうか。して兵吾郎はなんと言っておったのじゃ?」

由己は後頭部に釘をぶち込まれたような衝撃が走った。そして顔を伏せたまま、全身凍りついていた。

————なぜじゃ? なぜ秀吉様は兵吾郎をご存知なのじゃ? 

由己はあまりの恐怖に全身身震いするのだった。由己は怖くて顔を挙げられずにいたがゆっくりと恐る恐る顔をあげる。全身汗が吹き出していた。

秀吉は穏やかな笑顔を見せていたが、眼に感情が宿っておらず、その奥に獰猛な殺気を秘めていた。

「驚いたか! 実はのう、彼奴はわしら家老連中には顔の広い奴でのう。みんな信長の顔色を窺っておったのじゃが、部屋に入って顔合わすまで機嫌がわからん。そこで兵吾郎のやつ、そっと信長に会う直前に教えておったのよ。奴が首を縦に振れば機嫌良し、横に振れば機嫌悪し。ギャハハハ、それに彼奴はいつもコソコソと聞き耳を立てておってのう。そのことで、小遣い稼ぎまでしくさる。地獄耳の兵吾郎って呼び名までついちょったわ」

またしても秀吉の顔色が激変する。

「じゃが此度の件、彼奴は口を割らん。どういうわけか、自分の墓まで持っていくとかなんとか言いくさって! 望み通り、墓へ送ってやったわ。首と胴が別の墓じゃがなあ。ギャハハハ、おみゃあも笑ってよいぞ!」

由己は唖然茫然とするほかなかった。

————これは殺される!

————このまま知らぬは通用せぬ。

————このままでは命はない。今わしはその岐路に立っておる。

それが、から笑いする由己の直感だった。恐怖に凍りつきながらも、由己は必死に頭を動かす。

「も、申し上げまする。それがしも兵吾郎には同じ質問を……。されど、口を破らせることはできませなんだ。しゅ、首級はわかりませぬが、おそらく、首のない屍体は阿弥陀寺にあるものと推測致しまする。されど、じゅ、じゅ、住職は何かと理由をつけて渡そうとはせぬかと」

「何じゃと? わしに意味のわからぬ漢字だらけの説教でもたれるっちゅうんかえ!」

「は、ははっ、そうではございませぬ。本能寺で焼け死んだ屍体や、落武者狩りの餌食となった屍体も阿弥陀寺に集っておる様子。だ、だとすると誰のし、屍体なのか判別つかないのがその理由かと。それに、もはや信長様の首級など必要ござりませぬ」

秀吉は猜疑の色を滲ませる。

「なぜじゃ。なぜいらぬ。信長の葬儀に首級なしでは格好がつかん」

「上様、香木をもって信長様の像を彫らせまする。さすれば、見物する町衆は、信長様のご遺体からよい香りがすると噂しましょう。それは喪主であり、憎き敵を撃った羽柴秀吉様を褒め称えておる証拠じゃ、と噂を流せば面白いとは思いませぬか!」

由己はわざと軽薄な笑みを浮かべたが、その顔色には死に物狂いの形相も滲んでいた。

上座と下座の段差に腰掛けていた秀吉は、華やいだ気分になり、両足の足裏をバタバタと付き合わせて拍手するほどの大喜びだった。

「ギャハハハ、由己。愉快じゃのう。其方の案、あっぱれじゃ。信長の首級の不備の件は忘れようぞ。これからも励んでちょおよ!」

「ははっ、ありがたき幸せにござりまする」

それだけ言うと、秀吉はドカドカと気持ちいいくらい不作法に出ていくのだった。

由己は心の臓をギョグンと鷲掴みにされたかと思うほどの苦痛と、最大の危機からは脱した。しかし、兵吾郎と会っていたことを知られていたことが由己の心に深く突き刺さっていた。

————どうやらずっと監視されていたやもしれん。

そう思うと、由己は自身の警戒心のなさに失望すると同時に、密かに跡をつけられ、あの鋭い眼光に睨まれていたという事実に、今更ながら背筋に冷たい戦慄が走るのだった。そしてそれは、自身がいつでも消される存在でもあることを意味していた。由己は恐怖で両手が震えてしまい、弾き飛ばされた筆を拾うことができなくなっていた。そして、震える両の掌を見つめて、情けない自身に嘲笑するのだった。

秀吉の恐怖の爪痕が刻まれていた。それ以来、何の気なしに背後を気にするようになってしまったのである。そんなことはしたくはないが、そうしないと全身に虫唾が走り、冷や汗が噴き出すようになってしまっていた。そんなとき決まって、由己の顔が苦痛の色に染まってしまうのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る