第13話 一通の書状

 本能寺の変が起こる八日ほど前、旧暦では、五月の末日は二十九日なので五月二十三日、明智光秀は、安土城より自領の坂本城に帰城していた。

そろそろ日暮れ時。蒼空から夕景に変わり、その日は何かを暗示するかのように西空が、鬼灯(ほおずき)のような真っ赤な色に染まった。そして逢魔(おうまが)の刻、どす黒い血に染まったような、怪しげな空が広がっていた。

そんな頃、明智光秀は一人、大広間の上座に座す。

「————灯をもて」

明智光秀の言葉が響き渡り、障子の外側から少し開くと下人が顔を見せた。

「ははっ、すぐに……」

障子を閉めて行こうとする下人を光秀は呼び止める。

「待て! 隙間を作るな!」

よく見ると障子がきちんと閉められておらず、隙間ができていたのだ。

「も、申しわけござりませぬ」

障子の外で焦っている声色で下人が答えた。

光秀は細かいことに敏感なタチで、神経質なところがあった。それが光秀の長所でもあった。以前、天正二年に光秀が摂津攻めに従事していた際、長島一向一揆攻めの最中であった信長に宛てた注進状に対して、

「仔細がまとめられており、その場で見ているようじゃ」

と信長から褒め称えられたこともあった。

ただ、家臣や側近くで働く下人や中間の間では、細かすぎるところが大抵陰口のネタになっていたことは言うまでもなかった。光秀は何やら信長へ進言する時は、いつも人払いをさせ、密会を好むところがあった。とんとん拍子に出世した光秀を疎ましく思う織田家家臣は多く、そういう意味で、敵の余計な諫言を信長の耳に入れないためだったが、そういった行き過ぎたところが、信長さえも心穏やかではなかった。

光秀は崩したあぐらに片肘をついて悩みにふけっていた。同月十七日に、備中高松で毛利家と対峙している羽柴秀吉より信長に援軍要請があった。ちょうどその頃、光秀は甲州征伐後の領地配分の返礼で安土を訪れていた徳川家康の接待役に従事していた。急な役変えで中国征伐の援軍に抜擢され、出陣準備のため坂本城へ帰城していたのだった。

光秀の気持ちは晴れなかった。呆然とした表情のように見えたが、正面を見据えた目に妙な猜疑の色を浮かべていた。光秀は急な役変えに不満があったわけではない。確かに織田家筆頭として、徳川家康の接待役を仰せつかったのは、大変名誉なことではあった。それが中国征伐の後詰めというのは、総大将が羽柴秀吉であり、面白くないのは当然だろう。だがそういう意味での不満で心晴れなかったわけではなかった。この援軍派遣には光秀にとって漠然とした不安を煽る大きな意味があったからだった。

天正三年あたりから四国方面担当で、対長宗我部氏と宥和政策をもって当たっていたが、天正九年の暮れあたりからなぜか信長の方針転換があり、長宗我部氏との友好関係から一転していたのだった。

明智光秀は完全に面目丸潰れとなっていた。しかも、天正十年五月七日には、三男信孝を総大将に四国征伐が発令されていた。中国は羽柴、越中は柴田、関東は滝川・徳川のように他の方面では、当初外交を担った者が、征伐軍の総大将も兼務していたのだ。しかし、四国だけはそうならなかったことが、光秀に影が差していた。

光秀は完全に信長の構想外となっているように思え、苛立ちと焦りに襲われていた。この状況を打開しようと光秀は頭を抱えていたというわけだ。

「どうしたものか。一体どうすれば……」

そこへ斎藤利三が、燈篭を持って入ってきた。どうやら途中燈篭を運ぼうとしていた下人から受け取り、大広間に向かうついでに、運んできたらしい。

光秀のそばに燈篭を置きながら、笑顔で言葉をかける。

「殿、既に御耳に入ってござるか」

光秀は利三の言葉で我にかえる。そして燈篭の位置が気に入らなかったので、自身で少し位置を直す。

利三は少しムッとしたが、もう光秀の神経質な性格は気にしないことにしているようであった。そんな利三の気持ちなど一向にわからない光秀なのだ。

「あぁ、如何した」

利三は表情を和ませる。

「お聞き及びでしょうか。我が倅の七兵衛との相撲稽古で十五郎様が一本取られたとか。力がついてきておるご様子ですな」

光秀にも親心が顔を出し、頬が緩む。

「聞いておる。柄の大きな七兵衛に土をつけたと喜んでおったわ」

思わず光秀の口にも笑みが溢れる。

十五郎は光秀の嫡男で齢十三。最愛の煕子との間にできた子だった。光秀は戦国武将の中では稀な愛妻家だった。煕子は、結婚前に疱瘡を患い、左頬にその跡が残ったことで実家の妻木勘解由左衛門から光秀へ、婚姻解消の申し入れがあったにも関わらず、光秀はそんな煕子を受け入れた。そんなことからも夫婦仲はとても良かった。

光秀が何か病を患った場合や、逆に煕子が患った場合も、わざわざ祈祷を依頼するほど仲睦まじい関係であった。しかし、天正四年十一月、重い病が襲いかかり、祈祷の甲斐もなくこの世を去っていた。

そんなことからも、高齢で授かった待望の世継ぎということもあって、光秀にとって目に入れても痛くない子で、その溺愛ぶりは相当なものだった。

光秀はあらゆる学問を学ばせるだけでなく、十五郎に剣術や相撲稽古といった武芸の修行の他に茶、歌、能などの芸能も仕込む力の入れようであった。そのためか、荒っぽさはまるでなく、やや線の細く、色白で小柄であった。

ただ、この十五郎について光秀はどうにもならない問題を抱えていた。その事があって光秀は、自身の置かれた存亡の危機を、信長の明智光秀に対する心象を、回復させる方法はないかと焦っていたのだ。そのことが光秀の行く末を狂わせてしまうことになるとは、この時はまだ気付いていなかった。

光秀は十五郎のことを思うと、殺伐とした戦場に咲く一輪の花を見つけた時のように気が休まるのだった。そしてやや気持ちを持ち直して顔をほころばせながら、言葉を返す。

「それはそうと、利三、何用か。十五郎の話だけではあるまい」

談笑していた利三から笑みが消え、サッと緊張の空気を張る。

「殿、安土より伝令が……」

「そうか。通せ」

「ははっ」

利三が伝令を通す。

光秀は上座から下座へ移動し、居住まいを正す。伝令が上座に通ると、光秀と利三は平伏するのだった。

「惟任様、安土の大殿様より、翌月二日に備中高松へ出陣せよ、とのお言葉でござる」

「御意のままに。大殿様へはよしなにお伝えくだされ」

伝令は無駄口を叩くことなく、さっとその場を去るのだった。

利三は伝令が去ったのを確認すると、余所行きの顔を崩した。そうすると鼻根にシワを寄せた怪訝な面が現れた。

「殿、我ら、完全に四国方面からは外されましたな。このままでは、長宗我部家は滅亡必至でござる。それがし、義理とはいえ親類の元親殿を見捨てるわけにはまいりませぬ」

利三の実兄は、石谷家に養子入りして石谷頼辰となった。その頼辰には、義理の妹がおり、長宗我部元親の妻となっていた。つまり、利三と元親は親類関係にあった。

利三は鬼面に懇願の色を滲ませて光秀に詰め寄った。だが光秀は静かに首を横に振る。

「どうにもならんのじゃ。信長様は既に下知されておる。四国征伐後の知行配分までもじゃ。わしもどうにかしたい。じゃが、信長様は伊予、讃岐を返上させ、阿波南半分と本拠土佐の領有のみとする強引な朱印状を送って長宗我部殿を激怒させておる。さらに条件は厳しくなって今や、土佐一国に引っ込めときとる。これはもはや信長様よりの最後通告じゃ。四国征伐も翌月三日に出兵が決定したようじゃ。もうどうにもならん」

隙間風で燈篭の灯が和すようにゆらめいた。その揺らめく仄灯が、暗闇を眼光鋭く睨みつける光秀をぼんやりと浮かび上がらせていた。

「もっと元親殿に、この話に乗らなければ滅ぶ! と強く当たるよう説得致しまする。今の織田家の情勢を伝えまする。然すれば、存念を改めるやも……」

利三は自身の言葉に現実味が薄いことを悟っていたため、口調は弱々しかった。

光秀は苦々しい口調で話す。

「昨年末の長宗我部の処遇を決める談合の折、松井友閑が『長宗我部は天下平定の妨げになる』とかありもせぬ讒言(ざんげん)をまくしたてよった。がじゃ、その少し前に近衞前久卿が長宗我部元親と談合の場をもったのじゃ。信長様への敵対行為など微塵もないことは、承知の事実。片腹痛い讒言と近衞卿と嘲笑ったが、上様は松井友閑の言を入れてしまわれた」

光秀は天を仰いだ。

「四国の阿波に居を構える三好康長は、同じく四国最大勢力である長宗我部元親の前に風前の灯火で消えかかっておった。元々、敵対関係だった康長が上様と急に親密な関係になったことで、堺も操りやすくなり、上様にも利があった。堺とは元々三好家発祥の土地柄。三好の軍事力を長年後ろ盾にしていた時代があったが、今でも三好と堺衆の結びつきは強い。故に堺の代官である松井友閑の言葉は堺衆の言葉よ。無視はできぬ。種子島も巨万の富も抱える戦略上欠かせん町じゃからな。長宗我部より、三好を生かす方が織田家にもたらす益は大きい……してやられたわ」

ぼんやりと天井を見つめる。光秀の脳裏に捲し立てる友閑の像が浮かぶ。その刹那、毒々しい情に身が染まり、利三に眼光鋭い視線を投げる。そして、光秀は声を荒げ、愚痴を吐き捨てた。

「じゃが、元々友閑は、上様に物申せるような器ではない。誰じゃ、あやつに知恵をつけたは!」

利三は首を横に振る。

「それがしも不審に思い、探らせましたが、ぐぅ……皆目……」

利三は目を伏せ、口惜しさに言葉を失う。

その頃になると暮夜と重苦しい沈黙があたりを包み込んでいた。大広間に燈篭の仄明かりひとつ。二人の不気味な影が、床の間の壁にぼんやりとゆらめく。そんな時だった。障子の外側から声が響き渡った。

「殿、長宗我部元親様より早馬が到着!」

光秀が跳ね起き、声を張り上げた。

「な、なんじゃとぉ!」

斉藤利三も思わず、声のする方へ振り返る。

「まことであろうな!」

「……ははっ」

障子の向こう側から戸惑った下人の声が響いた。おそらく、状況がわからない下人は何を疑われたのかわからず、詰まってしまったようだった。

もう長らく長宗我部元親とは不通で、関係は既に断たれたと諦めていただけに急転直下、利三が期待に胸を膨らましているのが表情で見て取れる。

「なんとまぁ、元親殿より早馬とはなぁ……」

障子がスッと開けられると、書状を持った使者が足速に光秀へ近付いて渡す。

光秀ははやる気持ちを抑えながら、書状を乱暴に開けると目を通した。書状から頭をもたげた光秀は、唸るように叫びながら頭を抱き抱えるように倒れ込んだ。

「殿、如何しました? 元親殿からは何と?」

光秀からは反応がなかった。

「御免!」

利三は光秀から書状を奪い取って目を通す。利三の表情が覚めるように明るくなる。

「殿、これで万事解決ではござらぬか。甲州征伐から戻り次第、信長様の命に従う、としたためてござる! これぞ、渡りに船でござる」

光秀は身体をおもむろに起こしながら、

「利三、喜ぶのは時期尚早と思わぬか。よいか、元親の判断が遅すぎたのじゃ。すでに六月三日に四国に向け出兵が決まっておる。もう遅いのじゃ」

四国統一目前までの権勢をふるった長宗我部が、ここ数年の死闘を無にして土佐一国に引き下がる旨を伝えてきたのである。己の野望を諦め、無駄な血を流すことなく、和平の道を選択した元親の想いを今の光秀には受け止めきれずにいた。

絶望の淵で佇む光秀を見て、もどかしい利三は、たまりかねて声を荒げて説く。

「左にあらず、左にあらず。まだ出兵前でござる。無駄な血を流すことはありませぬ。すでに長宗我部元親は織田家へ降ったのでござる。伊予、讃岐、阿波は放棄してござる。そこに織田家の家臣へ知行分配できまする」

利三は光秀の目の奥に宿る何かに訴えかけるように、少し間を置いて諭すように、

「……これで、戦わずして殿の軍功第一にござりまする!」

うなだれていた光秀の動きが静止する。光秀はここのところ、信長の構想から外れかかっていることが悩みの種であった。気にしないでおこうという気持ちとは裏腹に『退き佐久間』こと、佐久間信盛の追放劇が脳裏に焼き付いていた。

佐久間信盛は信長の父信秀時代から織田家に仕えた古参中の古参である。それが本願寺との十年戦争で目立った手柄がなかったことで、あっさり追放にされた事件で、織田家中に激震が走った。そして誰しもが額に冷たい汗を滲ませ、背筋に戦慄が駆け巡った。光秀はその日の『退き佐久間』の背中に色なき風が吹く姿に自分を重ね合わせていた。恐怖と不安という物怪に囚われていた。

軍功第一という言葉には、それら悪夢を払拭させる、もう一度奮い立たせる大きな意味を持っていた。

光秀の中の物怪がささやく。

「利三の言う通り、この書状が通れば、四国征伐の部隊をそのまま長宗我部軍と合流させて九州征伐へ向かわせることも能(あた)う。絶望どころか、あるいは、起死回生の大功かもしれん」

耳をかす光秀の中に希望の芽が咲き、妖艶な華をつけはじめた。

「……確かに未だ間に合うやも……。能わぬと嘆いている時ではなかった。わかった。明日にでも安土へ赴き、上様へ掛け合ってみようぞ」

利三から笑顔が漏れる。

「ははっ、それがようござりまする」

光秀にとって長宗我部元親の書状は、暗闇を照らす月光のように思えてきた。光秀の目に希望と挽回を誓う決意の光が蘇った。

しかし、それは地獄に通ずる道であったことは、この時知る由もなかった。

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