第5話
今日は公園のベンチに猫はいなかった。
はあー、と大きくため息をついて康平はベンチに腰掛ける。
一週間前、ここでブチとあってしばらくは順調だった。
クレームもなく穏やかな週を過ごせていたが、昨日になって顧客からクレームの電話がかかってきた。
新築で家を建てているお客様なのだが、建設状況を家族で見に行ったとき、作業員が現場で煙草を吸っているのを見たというのだ。
その話を皮切りに、ちゃんとした資材を使ってくれているのか、見えない部分に手を抜いてないか不安だなどと、延々1時間以上話し続けられ、なかなか電話を切ってくれなかった。
康平はその間ずっと、
「ご心配をお掛けして申し訳ございません。しかし彼らも実績あるプロですので、いい加減な仕事はしません。ご安心ください」
などと……なんの根拠も、自信もないことを繰り返し言い続けなければならなかった。
正直なところ、康平自身も現場の作業員を完全に信用しているわけではなく、大丈夫だと断言するのが心苦しく苦痛だった。
ストレスの原因はお客様だけではない。
お客が電話を切ってくれたその後すぐに、現場監督に電話をし、煙草のことと、客が不安がっている旨を伝えたのだが、やはり相手とは気まずい感じになり、また胃が痛くなる思いをした。
そのうえ、その処理の対応のせいで通常業務が滞り、昨日は金曜で定時退社日だと言うのに、夜の10時近くまで残業する羽目になった。
残業する事自体も、上司に状況を説明して許可を取らねばならず、それが更にストレスになったのだった。
康平は公園で遊ぶ子供をぼんやりみながら、昨日のクレームのことやストレスの原因となったやり取りなどを、頭でおさらいするように繰り返し考えてしまい、無意識に気分の悪い思いを追体験していた。
みゃあ
猫の声ではっとし、現実の世界に戻ると、猫を抱いた男の子が康平の座るベンチの隣のベンチに歩み寄って来ていた。
男の子はよしよしと猫を撫ぜながらベンチに猫を置く。
康平はその猫がブチだとすぐに気付き、男の子とブチを目で追い様子を観察した。
男の子は康平に気づいてないのか、特に見られている事を気にしてない様子でブチを撫ぜている。
ブチは撫ぜられて嬉しいのか、気持ちよさそうに目を細めている。
しばらくの間、ブチは男の子の手に自分からすり寄るように甘えていたが、ふと康平の方に視線を向けてきた。
康平は猫と目が合い、ドキッとする。
みゃーっと鳴いたかと思うと、ブチは男の子の手から離れ、ビョンと康平の座るベンチに飛び移ると、康平の方にすり寄った。
そして康平の膝の上に乗ってくる。
「え?おい・・」
驚きと、照れくささで康平は思わず声が出た。
「なんだ、どうしたんだよ、急に」
照れ臭そうに戸惑う康平にお構いなしに、ブチは良平の膝の上でくつろぎ始める。
それを見て男の子が驚いた表情になった。
「おじさん、何か困ったことでもあるの?」
男の子が康平に不思議そうな顔をして聞いた。
「ブチが膝の上に乗るなんて……よっぽどおじさんのことが心配で気になるんだね」
――おいおい、それってよっぽど俺が不運ってことか?
男の子の言葉に康平は複雑な心境になる。
「いや……きっとこないだここで会ったときに撫ぜてあげたからだと思うよ……」
と、康平はとりあえず当たり障りなく答える。
「撫ぜてもらっただけで膝の上でくつろいだりしないよ、とくにブチは男の人は警戒するから初めての人には、なかなか触らせることもしないんだけど……」
男の子は不思議そうに言った。
「そうなの?全然警戒してる様子ないけど……人懐っこいんじゃないの?」
康平はブチの体を撫ぜながら聞く。
「子供や女の人にはね。でも、男の人は警戒するみたい。ママが野良猫のときに男の人に追い払われたりして怖い思いをしたんじゃないかって言ってた。」
そうか、お前も苦労したんだなぁと、しみじみ思いながら康平はふうんとうなずく。そして、
「こないだ会ったとき、女子高生と一緒だったからかもしれないなぁ」
と、少し考えながらつぶやくように言う。そして顔をあげて男の子を見た。
「その子はブチのファンみたいで、よく知っている子だったみたいだから…だから警戒しなかったのかもな」
「もしかして、泉美ちゃん?」
男の子が笑いながら言った。
「うん、そう、泉美ちゃん」
康平も笑いながら答える。
「おじさん、泉美ちゃんの知り合いなんだね」
男の子は完全に警戒を解き、打ち解けた感じで言った。
「知り合い……というほどでもないけど……」
一度しか会っていない女子高生だ。
知り合いと言ってしまってよいものなのか、康平は悩みながら
「まあ……名前を知っているというぐらいかな……」
と言う。
「泉美ちゃんもブチと同じで、ちょっと悩んでる風の人とかほっとけないんだ」
男の子はベンチに座って言う。
「だから、みんなにブチを触って幸せになってほしいみたい」
男の子の言葉に、康平は吹くように笑って
「たしかに!」と同意した。
康平は男の子の全身を見た。小学生3年か4年生ぐらいだろうか?
「君……この猫の飼い主の男の子かい?」
「うん、そう。山下秀樹、10歳です。」
「そう……山下秀樹くん、俺は山田康平です。まだ26だから、おじさんじゃないよ。」
男の子にならって年齢も言い、おじさんでないことをちゃんと伝える。
そして、ちょっと聞きにくいが気になっていたことを聞いてみた。
「泉美ちゃんが言ってたんだけど……、君が誘拐されたときに、ブチが助けてくれたって……ほんとう?」
「うん。ほんとうだよ」秀樹はうなずいた。
「ぼくは、ブチのおかげで、今生きてるんだ」
秀樹の言葉に康平は複雑な表情を秀樹に向ける。
本当だろうか?いったい何があったのか?
聞きたいが、聞きたい心を抑えなければと、康平が我慢している事を秀樹に悟られとのか、秀樹は康平を見て少し微笑み、そして話し始めた。
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