第14話
「え、これ、マグロのお刺身じゃないですか!」
驚いた声をあげたのは、秀樹の母親だった。
帰りが遅くなったので、康平は秀樹の家の方にブチへの貢物を持って行った。
「こんなに良いものをブチに?」
「いやぁ、ブチが私にしてくれた事に比べたら全然足らないです」
「まあ……」
秀樹の母親は、驚いたような、興味深げな表情で康平を見る。
「実は昨日、僕はブチに命を救われたんです、あと一歩前に出ていたら車にひかれるという状況で、ブチが止めてくれて助かりました」
「まあ、そうでしたが。ご無事で何よりでした」
秀樹の母親は笑顔でそう言ってくれた。心の底からの言葉だと感じる。
康平は、夜分にすみませんでしたと言い、その場を離れた。
この辺りは高級住宅街だ。康平は帰り道、それぞれの家の門構えなどを参考のために見ながら、ゆっくり歩いた。
街灯があまり多くなく、暗いのが良くないな。次の開発エリアには街灯を沢山つけるように提案しよう、などと考えながら歩いていると、「なーお」と、なんとも間延びした声が聞こえてきた。
ブチだな、そう思い康平は歩きながら姿を探す。
み~ぃ~ぃ
居た。ブチは、ゆっくり康平の傍に寄って来た。
「ブチ、一人で散歩か?いや、パトロールかな?」
すり寄ってきたブチを屈んで撫ぜてやると、また甘えた声でみゅ~と鳴く。ほんとに可愛い声を出すものだ。
「ブチ、早く帰った方がいいぞ、今日はうまい生魚が待ってるからな」
康平がそう言うと、ブチは意味が分かったのか、みーと泣きながら家の方に体を向け、1歩2歩と足を前に出してから康平の方に振り返った。
「はは、俺の言った事が分かったのか?」
ブチは何度も振り返り、振り返り、ゆっくりと歩いている。
見ていて欲しいのだろうかと思い、康平は微笑みながら、立ち止まってブチを見送っていた。
康平が歩き出そうとした時、少し離れた所に何人かの人影が現れた。
「あ!康平君!」
泉美の声だった。声がするなり人影の中から泉美がだっと飛び出すように走ってきて、嬉しそうに康平の腕をつかむ。
「わ、泉美ちゃん」
急に腕を組まれ、康平は驚いて声を上げた。泉美はそんな康平の様子に構うことなく、友人の方を見る。
「ごめんなさい、私の知り合いなの。私この人と一緒に帰るから」
泉美は友達に向かって言った。
友人らしき4人の男女は、緊張したような表情で康平を見た。
「やあ、こんばんわ」
康平は泉美の友達に声をかける。
一瞬、男の子たちが強ばった顔をしたように見えたが、すぐに一緒にいた女の子が元気よく挨拶を返してきた。
「こんばんは、私たち泉美ちゃんの学校の友達です。遅くなったので、泉美ちゃんを送ってきたの」
「もう大丈夫、康平君がいるから。ありがとうね、ばいばい!」
泉美は康平が何かを言う暇を与えずそう言うと、康平を引っ張って、くるりと方向転換して歩き出す。
「じゃあ、泉美ちゃん、また明日ねー」
叫ぶような女の子の声が聞こえたが、泉美はどんどん前に歩いて行く。
「泉美ちゃん……いいの?」
まるで無視するように歩く泉美に小さな声で聞くと、泉美も小さな声で「いいの、このまま私を送って」と言う。
友人に対しての冷たい対応は、普段の泉美のイメージでは無いと違和感を感じはしたが、康平はそれほど気にせずに泉美に従った。
「ここが私の家よ」
「すごい……お屋敷だね」
「ええ。とても恵まれた環境だと思うわ」
泉美は謙遜するでもなくそう言った。
開かれた大きな門から、広い庭と立派な日本家屋が見えている。
日本家屋は古さを全く感じない、綺麗な建物だ。恐らく、外見は昔ながらの日本家屋だが、中には最新設備の整ったキッチンやモダンな応接室などが造られているに違いない。
康平は家を見て、家の造りについて想像を巡らせていた。
「あ、そうか、家を建てるお仕事って言ってたわね」
泉美が康平の様子を見て言った。
「中見てみる?お茶でも飲む?」
「え?いや、もう帰るよ」
「遠慮しなくていいのよ、この家は結構有名な建築屋さんに頼んで建ててもらったっておじいちゃんが言ってたから勉強になるかもよ」
「ありがとう、でも…今日はもう帰るよ」
「そう?じゃあ今度ブチと秀樹君も一緒に招待しちゃおうかな」
「ありがとう、また機会があれば寄せていただくよ」
康平は秀樹よりブチを先に言う所が泉美らしいと、笑いながら言う。
そうだ!と、泉美は携帯電話を出し「連絡先、交換しよ」と言った。
ああ、と言い、康平も携帯電話を出して、連絡先を登録し合う。
「今日はありがと!康平君!」
連絡先の交換して、嬉しそうに泉美が言う。
「うん、もう中に入って」
「はーい」と返事して泉美は、手を振りながら庭の中に入っていた。
すっかり気力を取り戻した康平は、精力的に仕事をした。東野さんからも今では信頼され、電話が頻繁に来る事もなくなった。
何より、建設現場の人達と随分仲良くなった。
現場監督の石川からは教えてもらうことが多く、話すだけで勉強になった。また、作業員ともブチを話題に雑談したりして、今では彼らと話すのが楽しくなっていた。
そんな康平の様子を見て、上司の笹山が、建売用のベース設計をやってみるかと、言ってきた。
康平は「はい、是非!」と答えた。
笹山は、あの例の客を引き継いでくれた上司だ。
「急に無理はするな、辛い時は相談してくれよ」
笹山は康平にそう言った後、「お前には謝らないといけない」と言った。康平が不思議そうな顔で彼を見る。
「あの時、お前と一緒に客に言い返さなかった事を…とても後悔している。すまなかった」
その言葉を聞き、康平は微笑んだ。
「石川さんから色々聞きました。笹山さんと石川さんって友人同士なんですってね。それで、笹山さんが石川さんと僕を組むように調整して、石川さんに”決して負荷をかけるな!”と、そう言ってくれていたとか…」
康平の言葉を聞き、笹山は少し照れたような表情になる。
「だから、僕の方こそ謝らなければいけないと思っています。皆がとても気を使ってくれていたのに、それに気付く余裕も無くて、嫌な態度を沢山取ってしまって…すみませんでした」
”すみませんでした”を言った後、康平は心に爽やかな風が吹いた。
心のしこりがまたひとつ取れたようだ。
こうやって、人は強く成長していくんだなと、康平はそう思った。
そして、今度はブチに猫用のクッキーでも持って行こうと思った。
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