第10話
母親の手が離れた男の子は、車道に転がるプラスチックのゴミに興味を持った。そしてそのゴミを拾おうと車道に降りて、ゴミに向かって歩き出そうとおぼつかない足を一歩前に出した所だった。
母親は男の子の姿を見つけ一瞬安心したが、同時にスピードを出して走ってくる車に気付いた。プラスチックのゴミに向かって今にも走り出しかねない男の子の様子に母親が悲鳴をあげ、瞬時に父親が走り出す。
男の子はゴミに向かって足を前に出したが、そこでなぜか急に立ち止まり、ふらつきながら後ろを振り返ると歩道に戻ってこようとした。それと同時に走ってきた父親が男の子を抱き上げた、その瞬間――そこを勢いよく車が走り去った。
車が走り去った後、難を逃れたとホッとする父親。
男の子はそんな父親の腕から降りようと身をよじる。
「歩道に出ちゃダメだろ!危ないんだぞ!」
父親が男の子を叱るが、男の子は何かに気を取られていて、聞いていない様子だ。
と、その時、父親の耳に「みゃー」という猫の声が聞こえた。同時に足元にぶつかって来るものがあり、下を向くと、一匹の猫がすり寄って来ていた。
母親が娘を連れて、二人のもとに来てホッとした様子で男の子の頭を撫ぜる。
「驚かせないで……心臓が止まるかと思ったわ」
そう言い、そして「ごめんね、手を放して」と謝った。
父親が男の子を下におろすと、男の子は嬉しそうに猫を撫ぜ始めた。
「どうやら、この猫が後ろから声をかけてくれたから立ち止まってくれたみたいだ……」
父親がそういうと母親が猫を見た。
――もしかしてこの猫は…
「ああ、多分この猫は、噂の幸福を呼ぶ猫だね……」
微笑みながら父親が言った。
そしてこの瞬間から、この家族もブチのシンパとなった。
偶然もここまでくると、この猫には何かあると思えてくるなぁ
2人の話を聞き終わった後、そう思いながら康平はブチをまじまじと見つめる。
ひとつひとつのことは偶然と言える事ばかりだ。
ブチが急にしゃべりだして誰か助けたわけでもないし、明確に助けるために動いたのだという意思が確認できるような事でもない。
しかし、確かにこの猫に助けられたと思っている人がいて、その人たちはこの猫のことを幸運をもたらす猫だと信じている。
――本当に、そんな力を持っている猫なのかもしれない。
康平もブチの事を本当に幸運を呼ぶ猫なのかもしれないと、思い始めていた。康平の様子を見て泉美はここぞとばかりにブチの自慢を始める。
「この子は本当にすごいのよ!危機から人を救うだけじゃないの!」
泉美のブチ贔屓はいつもの事だが、康平はいつもよりも興味深く耳を傾けた。
「例えば、この子に大好きな男の子の写真を見てもらうとね、その日は必ずその男の子に会えるっていうような話もあるし、ブチを抱いて『告白が成功しますように』ってお願いしてから告白すると必ず成功するってみんな言ってるわ」
泉美が言う。
康平は泉美に同調する意味を込めた微笑みを泉美に向けながら、頭の中で考える。
まあ、恋愛系の話はどうかとは思う…
同じ学校に通ってるだとか、同じ通学経路だとかで、会える環境にあるんだろうし、告白に関しても、告白しようと思う段階で、そういう流れになっているケースが多いだろうから、元々成功する確率が高い状況だろう。
口に出さずそんな事を考えていた康平は、泉美の次の言葉に少し驚く。
「ま、ブチが何かしたというよりは、この子に勇気をもらった本人が積極的に行動を起こしたこと、それが成功の一番の理由なんだけどね」
ブチ命の泉美にしては随分冷静な分析だなと、意外に思い康平は泉美を見る。泉美は康平の目を見ながら力強く続ける。
「だ、か、ら、この子はすごいのよ」
康平は少し首を傾けた。泉美はそんな康平を見ながら続ける。
「ブチはね、ちゃんと見てる子なの。例えば、さっきの男の子や秀樹くんの時みたいに、自分の力だけでは何とも出来ないような時には、ブチが何らかの形で手を出して助けてくれるの。でもね、自分の力で何とかしないといけないような事はね、行動を起こす為の勇気をくれるのよ。つまり!自分の力で解決できることは、自分でなんとか動いて道を開きなさいってこと。ブチはきっとそんな風に思ってて励ましてくれてるに違いない」
そこまで言って泉美は一息つき、コーラをごくりと飲む。そして「私はそう思ってるの」と締めくくった。
「なるほど……」と、康平の口から自然に言葉が出た。康平は高校生の女の子の言葉に妙に説得力を感じていた。康平は何度も得するように頷きながら言う。
「泉美ちゃんの言葉は胸に刺さる言葉だよ。正直、ちょっと驚いた……」
康平がそう言うと、泉美は少し照れ臭そうに微笑み、誇らしそうな顔をした。そして、
「だから康平君もね、きっとブチが背中を押してくれているのだと思うのよ」
と、康平を見て言った。
自分の事を言われて、康平は何も返事をせず、だた微笑んで見せた。
それを見て、今まで黙っていた秀樹が心配そうな顔になる。
「康平さん、何か悩み事でもあるの?好きな人の事とか?」
心配そうな秀樹の様子に、ませた小学生だなと吹き出しそうになりながら、「好きな人の事じゃないよ」と康平は笑って答える。
これまで泉美と康平が話した内容など何も知らない秀樹だ、そういう勘違いをしても仕方ない。
「康平君はね、もっと深いことで悩んでるのよ」
康平の代わりに泉美が重要なことを伝えるような口調で答えた。
「深いこと?」秀樹はきょとんとした様子だ。
「お仕事の事。康平君はね、今のお仕事が嫌いじゃないんだけど、いろいろと上手くいかなくて、辛いと思う事があって、悩み事が多いのよ」
泉美は実に正しく簡潔に説明した。康平は苦笑する。
「それって……どういうこと?」
不思議そうに秀樹が言った。大人びた秀樹にはめずらしく子供らしさを感じる質問の仕方だ。
「秀樹くんは、学校は好きかい?」康平は聞いてみた。
「うん」
「学校で勉強するのが好きなのかな?」
「うん。勉強は好き。でも音楽とか体育は、あまり好きじゃない」
秀樹は小学生らしく真面目に答える。
「音楽と体育が嫌い?どうして?」
康平がそう聞くと、秀樹は少し考える顔をした。そして恥ずかしそうに答える。
「体育は着替えたりするのが面倒臭いし、あんまり得意じゃないから……走るの遅いし。音楽は、前にみんなの前で歌わないといけないことがあったんだけど、緊張してうまく歌えなくて……その時に先生に『君は音楽は、あまり得意じゃないんだな』って、みんなの前で言われて、すごく恥ずかしくて嫌だったから」
みんなの前でって…なんて教師だ。康平は秀樹の話を聞いてちょっと腹が立った。が、今はそういう話ではない。
「じゃあ、もし、一日中、音楽の時間だと学校に行きたくないんじゃない?」
康平がそう聞くと、う~んと悩み、「そうかも」と答える。
「多分、そういう感じかな。今は、嫌だと思う事が、好きと思う事よりずっと多いんだ」
康平が言う。秀樹はまた何か考えているようだった。
「でも僕は……、歌は上手くなりたいから、音楽の授業も頑張って受けてるよ」
秀樹は言う。
「パパとママも先生の言うことをよく聞いて、大きな声で沢山歌を歌いなさいって。そうすれば必ず上手になるからって……」
秀樹の言葉に、康平は驚き言葉が出なかった。
なんという、強さ。小学生とは思えない根性だ。
「僕はまだ先生の事が少し怖いけど、この頃は少し褒めてくれるようになったよ。僕が一生懸命やっている事が先生に伝わったからだと思う。ママも僕が一生懸命やっている事を先生に伝えてくれたみたいだし」
秀樹は力強く、嬉々として言った。
「そうなんだ……」と、康平は複雑な気持ちで呟くように言う。
秀樹の親御さんは、学校にしっかりクレームを言ったのではないかと思ったが、康平はそのことは黙っておくことにした。
「問題を解決するためには、やっぱり自分で解決に向けてアクションを起こす必要があると、そういうことよ」
康平と秀樹のやり取りを聞いていた泉美が、納得したように頷きながら結論らしき事を言い、康平を見た。
いやぁ……強力なバックアップの力が効いたんじゃないのかなぁ……
そう思いながらも康平は何も言わず、泉美に微妙な微笑みで応じる。泉美の方は無邪気な笑みを見せた。
「康平君もひとりでくよくよ悩まないで、怖い人たちに教えを乞うとかしてみたらどうかな?」
と、泉美が元気な声で言う。
そんな簡単にはいかないよ……と、康平は心の中でつぶやく。が、相手は子供だ。未来の無いようなことを言ってはいけないだろう。
「そうだね……逃げていたらダメだってことだね。僕も秀樹君のように積極的にならないといけないね」
康平がそう言うと、泉美と秀樹の顔がぱあっと明るくなった。ブチも康平の膝に乗ってきて、ミャーと鳴く。
「あ、ほら!ブチが後押ししてる。きっと積極的になって正解なのよ!」
泉美がますます嬉しそうな声を上げた。
「そうかな……」
「自信を持ってください、康平さん」
秀樹も力強く言う。
「お……う……」
年下の、まだ子供のふたりに励まされる俺って……情けない……
康平はなんとも言えない気持ちで二人に笑顔を見せた。
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