第9話
秀樹たちと会った次の週の金曜の午後3時頃、康平はまた公園に来て、ベンチに一人座っていた。今日も体調が悪いと言い、早退してしまったのだ。
「こんにちは、康平君!また、何か嫌なことがあったの?」
ぼんやりと公園のベンチに座っている康平に泉美が遠慮なく声をかけた。
制服姿の泉美は、ためらいなく康平の真横に腰掛けカバンを横に置く。
「まあ……少しね」
康平も警戒することなく、聞かれるまま照れ臭そうに答えた。
「サラリーマンも大変なのね。康平くん、上司の人に虐められたりしてるの?」
「いや、そんなことはないよ。ただ……4年も働いているのに慣れないというか……向いてないんだよね」
「どんなお仕事なの?」
「家を建てて売る会社なんだ。そんなに大きな会社ではないんだけど、土地を見つけてきて、それを注文住宅という形で売るんだ。大きな会社じゃないから、住宅の設計、お客さんをみつけてのやりとり、建築現場作業員のとの調整なんかも全部ひとりでやらないといけないんだけど、現場監督とか、お客も、みんな怖いんだよね」
「怖い?」
「客はちょっとしたことでも、クレームを言ってくるし、現場の作業員もなかなか言うことを聞いてくれないしね」
「殴られたり、殺されそうだったりするの?」
「え?いや、さすかにそんなことはないよ!そこまでブラックじゃない……」
康平は極端な泉美の質問に驚いて否定した。
「なんだ、それならそんなに怖がらなくても大丈夫じゃないのかしら」
……――殺されるわけではないから、怖くない?
明るい笑顔で言った泉美の顔を康平は不思議な感覚で見た。
それは、確かにそうかもしれないが……随分極端なことを言うんだなと、康平は泉美の表情を確認するように見つめる。
「康平君はその仕事が嫌いなの?」
泉美は目を逸らすことなく康平に尋ねる。康平は泉美の顔から視線を外し、前を向く。そして、考えるような表情で答える。
「嫌い……では、ないなぁ」
元々やりたかった仕事だから、2年前の自分なら迷うことなく「好き」と言えただろうが、今は自分でもはっきりとは分からない。
自分の心の中のことをわかるように説明するのはとても難しい。日によって感覚も全然ちがうし、当人である康平ですら自分の優柔不断さにはあきれるほどなのだ。ブチに会いに来るぐらい悩んでいるのに、嫌いではないというのも、曖昧で、つじつまの合わない回答だと、高校生には不思議に思ったかもしれない。
康平は泉美の反応が心配になって再び泉美の顔を見る。泉美の方は、康平の方から視線を外して正面を向き、そして康平の回答に応えるように口を開いた。
「嫌いじゃないのに……怖いものがあるって辛いわね。まあ、だから悩むのよね……わかる気がする」
泉美の反応は康平には意外だった。
康平は、「嫌いでないならいいんじゃない?なんで悩むの?」とか、「え?結局仕事好きなの?」というような言葉が返ってくるものだと思っていたのだ。
「でも、康平君は大丈夫。ブチにラッキーをもらってるから」
泉美は可愛い笑顔を康平に向けると、そう言った。
康平は、その言葉で心がずっと軽くなった気がしてた。そして、女子高生に慰められている事が少し照れ臭くなる。
「まあ、そうだったらいいんだけどね……、あ、喉が渇いたな。自動販売機で飲み物を買うけど、何か飲む?おごるよ」
「ほんとに?ならコーラ!」
遠慮なく喜ぶ泉美に爽やかさを感じ、微笑んでOKと言うと、康平はベンチから腰を上げて自動販売機に向かった。
ふたりが冷たい飲み物を飲んでいるところに、秀樹とブチが歩いて来た。ブチは秀樹の横をついて歩いてくる。まるで犬を散歩させているようだ。
「こんにちは」
秀樹がふたりに言った。
ふたりも、こんにちは、と返す。
ブチは早速、泉美の足元に擦りよった。彼女がいつも何か美味しいものを持っているのを知っているからだ。
泉美は、自分の足に擦り寄るブチに「はい、はい、ちょっと待ってね」と言いながら、嬉しそうな仕草でカバンからブチにあげるおやつを取り出した。そしてブチの口元に差し出すと、ブチがパクリと食べ始める。
「いつもありがとう」とブチの代わりに秀樹がお礼を言う。
「秀樹君にもクッキーあるのよ、どうぞ。康平君も食べて、手作りよ」
秀樹もベンチに座り、可愛くラッピングされた泉美の手作りクッキーを受け取る。
康平は立ち上がって秀樹に何を飲むかを聞き、自動販売機に秀樹の分の飲み物を買いに行った。
泉美の手作りクッキーは美味しかった。とても上手に焼けていて、店に並んでいるものと変わらないのではないかと思う出来栄えだ。
3人と一匹はベンチに座り、お菓子を食べながらゆったりと時間を過ごしていた。
そこに「こんにちは」と、小さな男の子と、六歳ぐらいの女の子をつれた女性が近づいて来た。男の子は三歳ぐらいで女性に抱かれている。
「こんにちは」
秀樹と泉美が笑顔であいさつに応え、康平は少し戸惑いながら、どうも、と軽く会釈する。
「秀樹君、またこれ、ブチにあげてね」
そういうと、女性はペットショップのロゴの入った紙袋を秀樹に渡した。
「わぁ、ありがとうございます。ブチはこれ大好きなんです」
秀樹がブチの代わりに喜んで受け取る。ブチは軽く飛ぶようにベンチから降りると、女の子に近寄って可愛く「みゅー」と鳴く。
「ブチ」と呼びながら女の子はブチの頭を撫ぜた。女の子の母親も、男の子を下に降ろすと、男の子と一緒にブチを撫ぜた。
ブチを撫ぜている3人はみんな幸せそうだ。
しばらくブチを撫ぜてから、女性は「じゃあ、また」と言ってその場を去る。秀樹はもう一度「ありがとう、おばさん」と言って3人を見送った。
女性が離れると、泉美が康平をのぞき込むように見ながら言う。
「あの男の子もブチに助けられたのよ」
「なんとなく、そうかと思ったよ」
康平はそう答えた。康平も、もうそういう話に驚かなくなっている。
秀樹が紙袋を持ち上げて、
「いつもブチの好物の餌を買ってきてくれるんだ。とてもやさしいんだよ」
という。
「で?どう助けられたんだい?」
康平が聞と、泉美と秀樹が顔を見合わせてほほ笑む。
「ブチはね、あの男の子の命の恩人なのよ!」
いつものように、自分のことを自慢するように泉美が言った。
秀樹は「すこし、大げさかもしれないけどね」と、ちょっと照れ臭そうに言う。
「そんなことないわよ!あの男の子がもう少しで車に引かれそうだったのをブチは助けたんだから!」
泉美は力強く言った。
「車に引かれそうな男の子を助けたの?どうやって?」
ベンチに戻ってきたブチの頭を撫ぜながら康平が聞く。
すでに康平の頭から仕事での嫌な事は消え去っていた。
天気の良い日曜の午後、お父さんも含めた家族四人が公園までの道を歩いていた。
途中、お父さんと女の子がかけっこをするような形になり、女の子がキャッキャと笑い声をあげながらお父さんから逃げるように走っていた。
しかし、はしゃぎすぎて力一杯走ったせいで、女の子が豪快に転んでしまった。
「わぁぁぁぁん!」
大きな声で泣き出した女の子に、父親が慌ててかけより、びっくりしたお母さんもつかんでいた男の子の手を放し、女の子に駆け寄ってしまった。
お父さんとお母さんで女の子を起こし、服の泥をおとして、よしよしとあやしながら、女の子が頭を打たなかったか、怪我をしていないかと心配そうに確認する。
幸い女の子は足を少しすりむいただけで大きな傷はなく、ふたりに心配してもらえて安心したこともあって、ほどなく泣き止んだ。
その時、母親は男の子の手を離したことを思い出してはっとした。
そして慌てて男の子の姿を探し、見つけると同時に短い悲鳴を上げた。
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