第12話

 会社を定時で出た康平は満員電車に乗り,地元の駅まで戻ってきた。そして、ゆっくりぼんやりとアパートまでの道を歩く。


 もう会社を辞めて、しばらく何もせず休もうか…

 康平はそんな事を考えはじめていた。

 

 康平の負の感情は、簡単に意識を過去へと引き戻す。


 そして何度も容赦なく、あの嫌な思いを追体験させる。それなら、考えなければ良いだろうと思うが、何かのきっかけで少しでも思い出すと、後はスイッチが入ったようにその時の感情や、言われた事が次々に頭に浮かんで無意識に過去の世界に入り込んでしまうのだ。


 今も、康平は無意識にそういう世界に入り込んでしまった。


「あんた、この家は客の好みで色々決めて建てる事が出来るって、そう言ったよな?」

 客は上司の前で康平を責めた。

「いや、それは内装なんかの話で……」

「そんな,難しいこと、俺らにはわかるわけないだろ!?」

 客がきつい口調で言った。


 そんなはずはない、パンフレットにも書いているし、契約の前に何度も説明しているのだから、お客様も十分に分かって契約したはずだ……


 面と向かって言えない言葉を康平は頭の中だけで繰り返し呟く。黙っている康平にイライラするのか、客は容赦なく続けた。

「結局、あれもダメ、これもダメ、なんじゃそりゃ、詐欺かぁ?」


 このままじっと黙っているわけにはいかない、ちゃんと対応しなければと、そう思い、康平は思い切って口を開いてみる。

「最初に、外装はテーマがあるので変えられないと、そうお伝え……」

「なんだお前!俺らが悪いって言うのか!?」

 康平が全部言い切る前に客が叫んだ。

 その声に康平は委縮し、また黙る。

「客に向かって、あんたらどう言う教育してるんだ!」

 客の厳しく責める声が康平の頭に響いた。

「お前みたいな奴をよく雇ってるよな?クビにした方がいいだろ!クビにしろよ!!」


 みゃあああー!


 ハッと、大きな猫の声で康平は我に帰り、反射的に立ち止まった。

 ――その瞬間、ゴゴゴゴォという音と、すごい風圧を感じる。


 目の前を大きな物体が音を立てながら勢いよく通り過ぎたのだ。


 一瞬、息が止まった。

 その後、心臓がバクバクと激しく動き始め、康平の身体中を揺らす。


 康平の目の前を通ったのはトラックだった。

 あと一歩前に出ていたら、頭を持っていかれてたかもしれない……

 康平は冷や汗をかきながら、大きく深呼吸をして後ろに下がった。

 そして、振り返る。


 ――ブチ……。


 キチンと前足を揃えて座っているブチが、康平を見つめていた。


 康平は息を呑み、ブチの方に歩み寄る。

 康平が近づくのを見てブチは立ち上がり、康平の足元に擦り寄ると、ミィ~と可愛い声を出した。さっき、康平の足を止めた鳴き方とは明らかに違っている鳴き方だ。

「ブチ……お前」

 康平は、ブチを抱き上げた。ブチはまるで小さな子供のように大人しく康平に抱き上げられ、瞳を康平に向けた。

「ありがとう、ブチ。お前は、本当に……」

 康平が泣きそうな顔になってブチに語りかけると、ブチはペロンと、康平の頬を舐めた。

 その行為が、まるで自分を心配し、慰めてくれているように感じ、康平の目から涙が溢れ出てきた。

 ブチは康平の目から溢れる涙を優しくペロンペロンと舐め続ける。


 不思議なぐらい涙が流れてきた。

 それで康平は、自分が少し鬱になりかけてたと言う事に気付いた。


 康平は全てを吐き出すように泣いた。

 小さく温かいブチを抱きながら道端で泣く自分はどこかおかしいと、そう思いながらも涙を止められずに泣き続けた。


 しばらく涙を流し続けた後、高ぶっていた気持ちが少し落ち着きはじめる。康平はゆっくりと大きく息を吸いた後、ゆっくりと息を吐き出した。

 ブチの頭をゆっくり愛情を込めてる撫ぜてやると、ブチは康平の肩に顎を乗せ、気持ちよさそうに目を瞑った。


「康平さん」

 優しい落ち着いた声で名前を呼ばれ、康平はゆっくりと声の方を見る。

「秀樹くん……」

 秀樹は康平の様子を見て少し驚いたようだったが、そのまま康平の方に近寄ると、ブチの背中を撫ぜる。

「ブチが、役に立ってるみたいだね」

 小学生とは思えない優しい表情を浮かべて秀樹が言う。

「……命を……助けられた……」

 康平がゆっくりと言った。

「そう……、大丈夫?康平さん」

「ああ」

 ようやく、現実世界に戻ってきたように康平の目に力が戻った。

「ごめん、みっともないところを見せた……」

 そう言うと、康平はブチを秀樹にわたす。

 秀樹はブチを受け取ると、本当に大事そうに抱いた。

 康平はポケットからハンカチを出すと、軽く目元を拭い、そして「ああ、なんかスッキリした」と、少し上をみながら言った。

「何かあったんだね、康平さん」秀樹が聞くともなしに言う。

「ぼんやりしていてね……、車にはねられそうな所をブチが助けてくれた。考え事をしてて、前を見て歩いていたのに前が見えてなかったんだ」

「もう大丈夫?康平さん」

「ああ。ちょっと鬱になってたみたいだ。ブチが優しく慰めてくれてるように感じて、自分でも驚くほど涙が溢れてしまった。……大の大人が、みっともないよね」

 少し照れ臭そうに康平がそう言うと、そんな事ないよと、秀樹が言う。

「康平さんは疲れてるんだよ、とても疲れてる時は、心が弱くなっていて,大人でも泣きたくなるものなんだって,ババが言ってたよ」


 そうだ、俺は疲れてたんだ……。

 康平は改めて自分の状況を冷静に確認することが出来た。

 あの件の後から、ずっと会社で緊張していた。でもその事を誰にも知られたくなくて、気を張っていた。

 頑張らなければと思いながら、心の奥底では怯えてばかりで、心がついて来てなかったんだな。

それで俺はきっと鬱になりかけていたんだ。

 俺は、自分自身を見つめる事が出来ない程、心に余裕がなかったのかもしれない。

 

「ありがとう、ブチ、秀樹くんも」

 自然と康平の口から出た言葉だった。

「僕は何もしてないよ」

 ニコッとして秀樹はそう言い、そしてブチを見て続ける。

「ブチは、困ってる人をほっとけないんだよね、ババがブチはきっと人の事がよく分かっているんだろう、って言ってた」

 秀樹の言葉に、康平はもう否定的な考えは浮かばなかった。すぐに、「きっとそうだね」と、相槌を打つ。

「あ……、そういえば、秀樹君はどうしてここに?」

 既に辺りが暗くなり始めていることに気付き、康平がきく。

「ブチを迎えにきたんだ。今日はブチの好物のご飯だから」

「そっか、もう暗くなってきたし、送っていくよ」

 秀樹が誘拐された事件を思い出しながら康平が言う。家が近いとはいえ、1人で帰すのは少し心配だった。

「うん、ありがとう!」

 秀樹は嬉しそうに返事をした。


 ゆっくり歩きながら,ブチの一番の好物について話をした。

 揚げたチキンが大好物で、母親が少し遠くに出かけた時などは、よくお土産に買って帰ってくるらしい。

 チキンを買って帰ってきた母親が玄関に入った途端,その匂いを嗅ぎつけてブチは玄関に走っていき、買い物袋に鼻を突っ込もうとするらしい。普段の落ち着いているブチからは想像もできないが、ブチも家の中では甘えてくつろいでいるのかもしれない。

 そんなたわいもない話をしてるともう秀樹の家の近くまで来ていた。

 心配そうに表まで出てきている女性の姿が見えた時、「お母さん!」と秀樹が大きめの声で呼んだ。

 その女性は、その声に安心したように笑顔を見せた。

康平と秀樹の母親は、軽く挨拶と自己紹介をした後、康平は秀樹に軽く手を振り、その場を離れた。

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