第28話

 一月二十八日。

 俺は連日の疲れに堪えながら、教壇に立っていた。

「先生頼んだ物は持ってきてもらえましたか」

 アサイ先生は頷きながら、A4サイズの書類の束を俺に渡した。

「感謝します。後、少しばかり席を外して頂けませんか?」

 少し懐疑的な表情を浮かべながらも、言われた通り教室から出る。ほとんどの生徒は俺がいる教壇の方を見ず、ただ顔を俯かせている生徒もいれば、T大の赤本を読んでいる者もいた。

「今日俺がここに立ってるのは他でもない。皆の首元にあるマークのことについてだ」

 取り調べのときのようにドスをきかせた声が教室の隅々まで響かせる。だが、生徒たちの態度は一向に変わらなかった。

「なんで見てないのに、マークがあるって分かるんですかー?」

 あからさまに人を馬鹿にするような、とぼけた男子生徒の声が聞こえ、それを追うように教室全体から薄ら笑いが起きた。

 ギィィィ。

 そのとき、教室中に漂った腐った空気を掻き消すように、椅子の足が教室の床にゆっくりと擦れていく音が鳴った。

「俺が言った」

 マサルが立ち上がって言った瞬間、皆の鋭い視線が一斉にマサルの体を貫く。

「まじでありえねぇ」「自分は関係ないからってチクりやがって」

「自分が点数とれなかったからって、逆恨みしてんでしょ。気持ち悪い」

「裏切者」「サイテー」「迷惑かけてんじゃねえよ、クズ」

 劣悪な言葉たちが持つ鋭い刃が、絶え間なく明石マサルの心に深く、深く、えぐり込んでいく。それでも彼は一身に言葉を浴び続け耐えた。だが、俺は違った。

 ドンッ!

「ふざけてんじゃねえぞ! お前らっ!」

 怒りを爆発させ、その言葉たちを叩き潰すように教卓に拳を振り落とした。

「こいつはな、お前ら全員の命を救うために一人で戦ってきたんだぞっ! こいつがいなきゃな、お前ら全員柿園サリのように苦しみながら死ぬだけなんだぞ!」

 呼吸の音すら聞こえなくなった教室の沈黙を背負いながら、アサミが立つ。

「皆、本当は気づいてるんでしょ。サリが死んだ理由も、このマークにあるって」

 マサルに向いていたミカの視線だけがアサミに向く。

「お前らはこのマークについて何も分かってない。俺はここ数日、ひたすらこの事件を追い続け、やっと全ての真相に辿り着いた。それも、この少年が全てを話してくれたからだ」

 俺は息を落ち着かせながら、訴えかけるように話す。

「このマークはあるウイルスにかかっている証だ。お前らはそのおかげで、一時的に知能が向上しているだけだ。だが、そんなうまい話しだけで終わるわけがない。このままだとウイルスが暴走し、三十一日後には全員が死ぬ」

 ボディーブローのように蓄積する衝撃的な言葉に、耐えきれなくなった数人の女子が思わず声を漏らした。

「俺は帰る。こんなやつの話信じられるわけねぇ」

 ケンタロウはそう吐き捨てるように席を立ち、バッグに手を掛けた。

「ああ、帰りたきゃ、帰れ。日に日に赤色になってきてるマークに怯えながら、死ぬまの間を楽しく過ごすならな」

「……」

 その足はピタリと止まり、ゴドウを睨む。

「皆も見たでしょサリの首元の真っ赤なマークを。同じ色になったら、どうなるか、まだ分かんないの」

「でも、助かるって証拠はどこにあんのよ」

 アサミに食いつくように、ミカが声を上げた。するとアサミはポロシャツのボタンを外しながらミカの目の前まで行き、首元を見せつけた。

「これで信じてくれる?」

「なんで……。体育のときあったじゃない。なのに、なんでないのよ⁉」

「治ったの。マサル君のおかげでね」

 ミカはアサミの体越しに、教壇に向かうマサルを目で追う。教壇に上がったマサルは深く息を吸い込みながら、皆の顔を舐めるように見つめた。ゴリもヒロユキも、固唾をのみながらマサルを注視している。

「治す方法はただ一つ、覚悟を持つことだ」

 教室中がざわつく。

「なんなのよそれ……、そんなのどうやって持つっていうのよ」

 ゴドウはアサイ先生から受け取った進路希望調査票を掲げた。

「ここに皆自分の夢を書いてるじゃないか。後はこの夢を叶えるための覚悟を持てばいい」

「覚悟を持っても、その夢が叶わないかもしれないじゃない」

 ミカは皆の心を代弁するようにそう口にする。

「あぁ、確かにそうだ。だがな、夢を諦めて、惰性で毎日を過ごして、人生を棒に振るようなやつは、端から何者にもなれやしねえ」

 ゴドウは何かを思い出すように無精ひげをゆっくりと摩った。

「若い頃の俺がそうだった。父親が早くに他界して、母子家庭だった俺は大学まで出しといてもらいながら、職にも就かず、ずっと家にも帰らずに遊びまくっていた。だがある日、家に盗みに入った泥棒が、夜勤から帰ってきた母親と偶然鉢合わせて持っていた包丁で刺し殺した。俺はひたすら犯人を憎んだ。数日後犯人が捕まった後も、憎しみは消えるどころか、日に日に増していった。そしてあることに気づいた。本当は犯人ではなく、過去の自分を憎んでるってことに。俺がその時に家にいていれば、俺がちゃんとした職について、母親を養っていられればって、俺は戻るはずのない過去をただ恨み続けた。そしてそれに打ち勝つために覚悟を決めた。覚悟が決まるとな、自ずとやんなきゃいけねえことが分かるんだ。自分には人に何ができるかっていうのがな。そして俺にとってそれは、警察官になって、悪を懲らしめることだった。事の大小はあれどな、必ず覚悟を持つきっかけは必ず誰の記憶の中にでもあるはずなんだ。それを若くして見つける奴もいれば、一生見つけずに死んでく奴だっている。スポーツ選手や芸術家だってそうだ。若くして世界一になる奴もいりゃ、こいつみたいにずっと絵を描いているやつもいる。そいつら全員、それが好きで自分のためにやってるように見えるけどよ、そういう覚悟を持って何かをやっているやつらを見て、元気をもらったり、感動したりするだろ。そういうやつらも、少なからず人に何かを与えるんだ。まだ夢が持ててねえ奴も、何をしたいか分かんねえ奴も、まずは自分は誰に何をできるのかを考えるべきじゃねえのか」

 気づけばゴドウの熱弁を全員が真っすぐな眼差しで食い入るように聞いていた。そしてゴドウ自身も、自分の過去を振り返ったことであることに気が付いた。

『だから、俺も感染してねえのか』


 熱演を終えた刑事さんは、何も言わず隣に立っていた俺の肩を一度叩き教壇を下りた。大きく温かい手が重くのしかかる感覚を感じながら、俺は教壇に上がり、教卓の両端を強く握ると、周りに漂っていた刑事さんの冷めやらぬ熱気が混ざった空気を鼻から大きく吸った。

「皆は親の期待とか、世間の目とか気にして『ならなければならないもの』になろうとしてるんだ。だけど覚悟を持つということは、その正反対の『なりたいもの』になるという気持ちを持つことなんだ」

 クラス全員の俺を見る眼差しは、数分前とは全く違った。

「『ならなければならないもの』の中には、人のためにという信念が欠けている。だから、決意までしかできない。だけど、『なりたいもの』なるにはそうはいかない。理想の自分に近づくために、人のためにするという信念が必要不可欠なんだ」

 時折、口から細かい唾を出しながらもただ一心不乱に話続けた。こんな姿、小学生の俺が見たらどう思うだろうか。

「覚悟を持つまでの道のりはとても険しい。ほとんどの人間は途中で追うことを諦める。だけど、そこで挫けそうになったとき、自分を支えてくれるのは、『人のため』という信念なんだ」

 だけど、紛れもなくこれが今の俺だ。覚悟を持った俺なんだ。

「皆の心の中にもいるはずだ。自分のしたことを通じて、幸せにしたい誰かが」

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