第21話
掌にはまだ、サリをぶったときの感触が残り続けていた。
「じゃぁ最後の質問ね。サリさんが死亡する前に頬をぶったっていう話を聞いたんだけど、本当かな?」
こちら側が緊張しないように同性で且つ年の近い人が選ばれたのだろう。前髪がセンターで分かれた女性警部のはきはきとした声がぶつかってくる。
人をぶったのは生まれて初めてだった。一人っ子だった私は姉弟喧嘩をする相手もいなかったし、両親にだって一度もぶたれたこともなかった。友達といて意見が食い違っても真っ先に自分の意見を折る側の人間だったから、仲が悪くなることもなかったし、そうなることを恐れていた。そうして人と距離を取ってきた人間だから、何かで食い違うと自分を曲げず通そうと衝突し合う人間が理解できなかったし、若干の嫌悪感を覚えることもあった。
そんな人間だったはずなのに。
「はい……」
「前々から、そんなことがあったのかな」
女性警部は語尾を丸くし、寄り添ってくるような声を出す。サリやミカの言動が気に障ることは何回かあった。だけどその度にちゃんと自分の中で処理して、適切な距離を取り続けられた。だから必要以上に傷つくこともなかったし、これまで平和な学校生活を送れてきた。
それが少しずつ狂い始めたのはこのマークが現れてからだ。
「私、許せなかったんです……」
どの教室からも離れている家庭科準備室はよく声が響く。食器棚に当たって反響した言葉も衰えることなく、私の耳に戻って来た。
許せなかった。みんな揃って二年生の頃からお世話になっている担任の先生に土下座を強要し、異議を唱えたマサル君の声が当然のように多数派に潰されかけるのを目の当たりにしたとき、心の奥の奥から込み上げてくる初めての感情を無視できず声を上げた。
一人っ子で遊ぶ相手も少なかった私は、必然的に一人でできる遊びをするしかなく、そこで始めたのが絵を描くことだった。両親は私の絵を見る度褒めてくれて、それがとても嬉しかった。そして、好きこそ物の上手なれが口癖だった両親は私に様々な絵の英才教育を施した。絵が上達していく度、両親も喜んでくれて、周りの子たちよりも絵が上手になった私はそれだけで、他の女子からも一目置かれる存在になることができた。
だけど、中学校に進学した頃から壁に当たり、絵が上手くなっている感覚が一向に感じられなくなり、一方で一緒に美術部に入った同級生の絵がめきめきと上達し、一目置かれるようになるのを傍で見て、徐々に不安が憎しみに変わっていくのが分かった。
しかし、逆にその憎しみは自分の壁を壊す起爆剤となり、絵が上達していくのが目に見えて分かった。そこで初めて自分の知らない自分を知った。
それからは憎しみに身を任せ描き続けた。楽しくもなければ、次第に自分が何故絵を描いているかも分からなくなっていった。それでも両親の期待に応えようと絵を描き続け、県内唯一の美術専攻があるS高を受験した。が、あっけなく失敗し、併願で受けていた普通科で入学する事となった。正直絵を描くことが苦しくなっている自分がいた。受験に失敗し、やめる理由ができたと、内心ほっとしている自分も。
そんな中、一年で同じクラスになり出会ったのがマサル君だった。
『明石君はどうして絵を描くのが趣味なのに美術専攻科に行かなかったの』
自己紹介の後、吸い寄せられるようにマサル君の元に駆け寄った。自分から、初対面の人に話しかけるのは初めてだった。だけど、不思議と緊張はしなかった。
『好きな時に描きたいからかな。あと、別に教わることないし。遠藤こそ、なんで』
『私はね……』
落ちたことを正直に話した。でも絵を描くのは好きだと嘘をつき、一緒に美術部の見学に誘った。ただ、マサル君と一緒にいれる真っ当な理由が欲しかったから。マサル君も美術部には興味があったようで、公立としては珍しく、画材や絵の具などの消耗品が無料で使えるということや、来たい時に来てくれていいというラフな雰囲気だったこともあり、二人ともその日に即決して入部した。
それから三年間、クラスも同じだったこともあって距離も縮まっていき、気づけば名前で呼び合う仲までになっていた。人と距離を取りながら生きてきた私にとって、マサル君との会話は新しい発見の連続だった。
だけど、それは良いことばかりでもなかった。一緒に文化祭の看板を描いたあの日、P美大の推薦の話を聞いて素直に嫉妬した。だからわざと『才能』という言葉の壁を使ってマサル君と初めて距離を取った。そうでもしないと、絵が上手くないという現実を突きつけられて、またあの黒い波にまた飲み込まれてしまいそうだった。
「私……」
人は全てにおいて、価値をはかる物差しを求める。P美大はマサル君の絵に『上手さ』という物差しを押し当て、サリは資本主義社会の世の中において、老若男女誰もが持ち合わしている『お金』という物差しで芸術をはかり、価値がないと皆の前でことごとくそれを踏みにじった。
許せなかった。マサル君が何よりも『芸術』を大切にしていることを知っていたから。そして、マサル君の声が多数派に潰されかけたときより、更に強く込み上げてくる感情を無視できなかったから。
「好きなんです。マサル君のこと」
頬伝い掌に落ちた一滴の涙は、残っていた感覚を癒すように消していった。
事情聴取が終わり女性警部と一緒に準備室を出ると、廊下にマサル君が立っていた。
「一緒に帰ろう」というマサル君の言葉に空気を読んだのか、女性警部は「協力ありがとう」と言いながら足早に去っていった。
さっき出てきたと思った夕日は明かりを帯び始めたアパート越しに、私たちを照らしながら沈み始めている。この時期は日が暮れるのが本当に早い。マサル君は廊下で会った時からずっと神妙な面持ちで、ひたすら数歩先のアスファルトを見て歩いている。こうして二人並んで帰るのは初めてで、ローファーの底が河川敷のアスファルトに擦れる度、今日が何てことないいつもの日常だったらとつくづく思う。そんなことを考え歩いていたら、ふとマサル君が口を開き、目に留まった川沿いの木製ベンチに座ろうと切り出してきた。
「さっきはさ、ありがと。俺のために戦ってくれて」
「……いいよそんなの。何か、私も馬鹿にされた気分になっちゃってさ」
私の吐いた息がマサル君の息と空中で重なり、空へ昇っていく。それが消えていくまで目で追っていると、視界の隅でマサル君が巻いていたマフラーを解き、ボタンを外し始めるのが見えた。
「え」
夕日に照らされた首元には、あるはずのマークが見当たらない。
「何で……、私と同じ時期からあるって」
「ごめん。アサミを安心させようと思って、ずっと嘘ついてた」
隣に座っているはずなのに、心はとても遠くにあるように感じられる。
「じゃぁ何で今更……」
「不謹慎かもしれないけど、アサミがサリをぶったとき嬉しかったんだ。まだ俺は一人じゃないんだって。何かを分かち合える仲間がいるって。だから俺も正直になって、アサミのために戦わなくちゃって、そう思ったんだ」
綺麗ごと並べて距離を取る。昔の私にそっくりだ。
「……戦うって、戦うって何よ! マサル君は関係ないじゃない!」
そう言ってベンチから立ち去ろうとしたとき、マサル君は私の手をカーディガンの袖越しに力強く掴んだ。
「アサミも見ただろ!? サリが倒れた時の首元のマークを!」
忘れたくても忘れられるわけない。チューブから出した絵の具をそのまま塗ったような、あんな赤色。
「多分、あれはただの心停止じゃない。あのマークの副作用なんだ」
悪霊に憑りつかれたように悶えるサリの姿が脳にフラッシュバックする。
「大丈夫、絶対俺が何とかする。だから信じてほしい」
沈みかけた夕日が頬に流れる涙を照らし、マサル君の目には希望の光を宿す。
私はその目を真っすぐ見ながら、震えた指でポロシャツのボタンを二つ開けた。
「そんな……」
夕日が完全に地平線へ沈み、もう私たちを照らすものは何もなかった。
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