第20話

二〇二〇年一月二十四日。

 各メディアの取材も落ち着き、二月に控えた国立の前期日程入試が近づくにつれ授業もほぼ全て補習となる中、三年a組の教室だけは全く緊張感のない異様な空気が流れていた。

「よーっし、入試も満点取って、余裕でT大合格だな」「これは年収一千万も夢じゃないよなー」「俺絶対n商入ろ」「私はf商入って玉の輿乗るんだぁ」

 皆センター試験で全員満点を取ってから、もう誰も教科書や参考書にすら手を付けず、自習中はただひたすらスマホ片手に夢物語を語っていた。俺はなるべくそんな戯言を耳に入れないように、集中してスケッチブックに鉛筆を走らせていたとき、後ろで集まっている輪に交わろうと席を立った生徒の腰が俺の机に当たり、消しゴムが落ちた。俺は溜息をつきながらそれを拾うついでにふと後ろを向くと、ヒロユキもゴリも同じ態勢で机に突っ伏し眠っていた。

 結局、この前の言い争いから今日まで二人とは挨拶すら交わさずにいた。中学の頃から繋がっていられた唯一の友人がいない今の世界は、外界の全てと断絶されたことと同意義で、それを絵を描くことで現実を逃避しようとしている今の自分は、小学校に入学した当時と何も変わらなかった。

 掲示板で名前が晒されてから、校内を歩けば全生徒から視線や陰口を叩かれるようになり、自ずと教室とトイレを往復するだけになった。それも小学校に入学した当時の自分にとっては当たり前の環境だったのに、体と一緒に成長したはずの心は何故か脆くなっていて、一つ一つの誹謗中傷によるダメージはとても大きかった。

 それは一緒に名前を晒されたアサミも同じだった。

「相変わらずお馬鹿さんは大変だねぇ~」

「……」

 言葉尻が嫌らしいミカの挑発に反応せず、アサミは黙々と看護学校の問題集を解いていく。

 晒されて以降、どちらからともなく俺とアサミは毎日連絡を取り合うようになっていた。本当はお互いに日頃の鬱憤をぶちまけたいはずなのに、互いが互いを思い合うあまり磁石の同極のように反発し続けた俺たちは、結局倦怠期のカップルのような中身のない何気ない話をするだけだった。

 そしていつしか、諸悪の原因であるxのマークの事について、深追いしないというのが二人の間で暗黙の了解になり、自分にもマークがあると嘘をついていたことも次第に忘れていった。

 アサイ先生に相談してみようとも思ったが、土下座騒動以降、生徒と教師の権威関係が完全に逆転してしまっていたため、何を訴えても無駄だと悟った。

 また、去り際に連絡先を交換したシンのお兄さんにも何度か電話したが、研究が忙しいのか一度も繋がらず、短文で送信したSMSさえ返事がなかった。なので卒業までの数週間。波風立てず穏便に学校生活を必要最低限の行動で終わらせることだけを考え、毎日の日々を送ることにした。二人ともそのつもりだった。

「なに無視してんのよ」

 そう言ってミカは問題集を引き抜くようにして奪い表紙を見た。

「ちょっと!」

 アサミがミカを睨む。

「看護師なんて、よくそんなブラックな所でよく働こうと思うよね」

「いいでしょ、別に……」

「患者さんからセクハラとかあるんでしょ」「私、血見るのとか絶対むりー」「ほんと、かわいそう」

 取り巻きの女子生徒たちの粘着質な声が俺の手に纏わりつき、鉛筆を走らせる手が段々と重くなっていく。

「可哀想なのは」

 ぷつっ、と何かが壊れた音がした。

 何が壊れたのかは分からなかった。が、それのせいで声量のブレーキが効かなくなった俺の声が教室全体に届くや否や、アサミに対する貶し笑いが一瞬で止み、女子生徒たちは一斉に俺を睨みつけるように見た。

「可哀想なのはどっちだよ!」

 机に置いた鉛筆の芯は根元から折れていた。

 俺とミカは互いに視線をぶつけ火花を散らし睨み合っていると、サリがミカの前に立つようにして、俺の視界に入り込んできた。

「テストで点数取れるのが、夢も持たずにただ大金を稼ぐことが、そんなに偉いことなのかよ! 狂ってるよ全員!」

 立ち上がり、辺りを見回しばらまくように放った言葉は教室中を埃のように舞い、全員の視線がその言葉を貫いて俺の肌を突いた。

 あと数週間、いや、たった数週間、黙り続けることなんて何も難しくなかったはずなのに。

「あなたはいいじゃない、まだ取り柄があって。でもね」

 舞った言葉たちが上品なサリの声に塗り替えられていく。

「そんなの、お金になんなきゃ何の意味もないのよ」

 取り巻きは手を叩き、足をじたばたさせ声高々に笑う。

 違う、そんなことありえない。母さんも、シンも、ゴリも、絵を描けば皆喜んで感謝してくれた。そしてその対価としてお金を貰えなくても、目の前の人が喜んでくれる、それだけで俺は絵を描く意味を感じた。

 そう信じたかった。

 なのに、まだ、何かが足りなかった。それを信じ切れずにいる心にもどかしさが這い回り続けていた。自分の心を完全に満たし、信じ切るために必要な最後の一ピースが、ずっと見つからずにいた。

「あと、あまりシンには近づかないでよね。馬鹿が伝染るから」

 馬鹿が伝染る。『天才』が伝染る世界だ、馬鹿が移っても不思議ではないかもしれない。と、純度百パーセントの理不尽な言葉にも納得してしまいそうになる自分がいた。

 全てを諦めるように座席に座ろうとしたとき、視界の片隅でアサミが席を立ちサリの前に行くのが見えた。

 そしてすぐ、パチっ、と軽く皮膚の肉が弾ける音が教室に響いた。俺の五感が捉えたのはその音だけだったが、その情報だけで何が起きたかは安易に想像がついた。

「えっ……」

 サリはぶたれた左側の頬を抑え、ただただ茫然と立ち尽くす。

「今すぐマサル君に謝って」

 一瞬にして静まり返った教室では全員が手を止め、息を飲み、二人に視線が注がれる。

「自分が何やってるかか分かっ」

 パチっ。右頬にぶたれた二発目は更に強かった。

「いいから早く」

 アサミの目は赤く充血し、呼吸が深くなっていく。

「……あんた、いい加減にしなさいよっ!」

 未だ茫然と立ち尽くすサリに代わり、庇うようにして割って入ったミカがアサミの髪を掴む。アサミも咄嗟に髪を掴み返し、二人ともわめき声を上げながら髪を引っ張り合った。それを面白がり煽り立てる奴らを掻き分け、二人を止めに入ろうとしたとき、隣の教室で授業をしていた先生が騒ぎを聞き、教室に入って来る。

「何やってるんだ!」

 先生が二人の両手首を持ち、引き千切るように離す。

「……こいつが、先にサリをぶったんです」

 息を切らし、乱れた髪を後ろに掻き分けながらミカが言った。

「本当か遠藤?」

 アサミは髪を乱したまま首をどちらにも振らなかった。

「とりあえず、二人とも後で職員室に来なさい」

「は? 何で私も行かなきゃなんないんですか」

「いいから黙って……」

「うっ」

 立ち尽くしていたサリが胸の辺りに手を当てうずくまる。

「おい、どうした?」と先生がサリの肩に手を置いた瞬間──「あ、あっ、っあ、ああああアアアッッ!」と息を詰まらせたような声を上げながら床に倒れ、激しく体を痙攣させ悶え始める。

「キャーッ!」

 その姿を見てサイレンのように鳴り響く女子生徒たちの悲鳴の大きさが事態の深刻さを物語る。

「おい! どうしたっ!」

 先生は咄嗟にポロシャツのボタンを胸元まで引き裂くように開き、人工呼吸と心臓マッサージを繰り返しながら、周りの生徒たちに激声を撒く。

「誰かAED! 救急車も呼ぶんだ!」

 しかし誰一人として微動だにせず、全員してサリの首元の真っ赤に染まったxのマークを見続けた。


 

 少し大きめの灰色のジャケットに腕を通し、教室の入り口に張られている規制線を潜る。死亡事件現場に出向くときはいつもこの色のジャケットだ。

「ゴドウ警部、お疲れ様です」

 口元の無精ひげを触りながら若手警部の挨拶を軽い会釈で返し、死体にかけられた白い布を捲った。

「死亡者と死因は?」

「柿園サリ、十八歳女性、死因は心停止によるものだと思われます」

「持病もなしか」

「はい、ご両親に確認済みです」

「殺人の可能性は?」

「はい、急に苦しみだし倒れたという現場にいた生徒たちの証言が一致しているので可能性は極めて低いかと」

 体内からの毒物検出もないとなれば、心停止が固いだろう。ただ。

「この首元の赤いマークは刺青か?」

 この妙な違和感は何だ。

「そのことなのですが……」

 機械のように返答していた若手警部が急に口籠った。

「空き教室でその場にいた生徒たちに事情聴取を行っているのですが、何故かそのことについては全員黙秘しているみたいで。ただこのクラスの担任の先生は去年の秋ごろに工藤健太郎という生徒の首元に黒色の同じマークの刺青を見たことがあると」

 二十年間、様々な現場で培ってきた刑事の勘が働く。人が何かを隠すときには必ず裏がある。だが何故こんなこと隠す必要がある、ただの刺青ではないのか……。

「他の生徒の首元にも同様のマークがないか確認しろ。そして事情聴取が終わった生徒はすぐに帰らせるんだ。メディアにも一切嗅ぎ付けられるんじゃないぞ」

『天才クラス』という言葉はニュースに疎い俺でも聞いたことがあった。そのクラスの生徒が死んだとなれば、またメディアもこぞって食いついてくるだろう。

「重要参考人として待機してもらっている死亡者と恋人関係があった生徒はどうしますか?」

 俺は再び遺体に布を掛け直し、体を伸ばしながら立った。

「そいつだけは帰すな」

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