第19話


第三章 「才能暴走」


<1月17日 室内温度・湿度共に正常。これより実験用ラットに『液体S』を皮下投与し迷路実験を行う。尚、投与方法は証言と同様の経口投与で行い、量は文化祭で実際使用されていた豚汁を想定し、8Lの水に一滴の平均である0.04mlを希釈したものを推奨投与量である10ml投与する>

 実験用ノートの上にゆっくりとペンを置き、ゴム手袋を装着する。一時間程前から移動させ、実験室に慣れさせておいた真っ白のラットをゲージから取り出し、ピペットで吸い上げた液体Sを一滴口へと流し込み、透明のアクリル板で仕切られた迷路の中に入れた。

<三十秒経過。ラットはスタート位置から動かず、餌のあるゴールに向かおうとはしない>

 失敗か……。その言葉が脳裏をよぎった瞬間、ラットは厚さ二ミリ程しかないアクリル板の上に乗り、一歩ずつ器用に迷路の上を歩き始めた。

「……」

 その光景見た瞬間、一気に体中の血の気が引いていく感覚と同時に口元が上がっていく。知能乏しいラットが自身の置かれている状況を把握し、更に餌までの最適解を三十秒で導いた。こんな光景、見たこともなければ論文で読んだこともない……。俺は衝動的に採血ホルダーを手に取り、ピペットで血を吸い上げる。が、緊張と恐怖で手が震え、それ上手く口に運ぶことができない。

 落ち着け、まだ確定した訳じゃない……。

 俺は心の中でそう唱えながら一度深呼吸し、ゆっくりと目を閉じた。すると瞼の裏側にはあの日、死んだように公園のベンチで横たわっていた自分の姿が映し出された。あいつの頭脳が欲しい。そう唱え続けた非現実的な願望はいつしか、達成されなければならない命題になった。あれから日夜、あらゆる文献に目を通し調べ尽くした。その結果辿り着いたのが『知能向上薬』だった。それも、違法ドラッグなどの効果が一時的で人体に害があるものではなく、永続的で影響がない、誰もが使用できるものを完成させるべく、俺はこの会社に入った。

 これで大幅に研究が進み論文を書き上げれば、俺は知能向上薬の第一人者となれる。そして新薬が完成した暁には、もう同期のあいつとは比べ物にならない地位が与えられて、両親にだって認めてもらえる。そうなれば合格発表の日に失われた俺が戻り、またあの頃の自分として生きていくことができる。

 取り戻す何があっても。

 そう覚悟が決めると同時に手の震えが消え──ピペットの先端から垂れた一滴の血が喉を通る。報われてこなかった記憶を突き破りながら。


 翌日。

 ミントタブレットを口に入れ、徹夜で書き上げた論文を手にグループリーダーの元へ向かった。

「これ、本当か?」

 俺はしっかりと両眼を見開いて首を縦に振った。昨晩中あらゆる研究を行った結果、シンの血液の中には知能の向上を促す神経伝達物質を数十倍に増やし、神経の成長を促進させる未発見の成分があること、それを促す役割以外に作用しないことも分かった。俺はそれを英語で才能を意味する、talent、 ability、 giftの頭文字をとり、『TAG』と名付けた。しかしそんな万能ウイルスにも一つ欠点があった。効果が永続的に続かないという重大な欠点が。

「早速、製作に乗りだしましょう。商品化出来れば、特許が切れるまで我々が一人勝ちできます」

「しかし、こんな論文どうやって一晩で書き上げたんだ」

「今はそんなこと重要じゃないでしょう。とにかく他社に追いつかれる前に……」

 いつも本質を見失っている。これだから、上の人間は嫌いだ。

「とりあえず、この論文は上層部と協議し、念入りにチェックさせてもらう」

 チッ、と舌打ちしてしまいそうになるのを堪え、右の奥歯でタブレットを噛み砕く。

「しかし、こんなにも続いて論文を協議することになるとは……」

 ぼそっと吐き捨てるように口にしたリーダーの言葉を俺は聞き逃さなかった。

「どういうことですか?」

「知らないのか。エイズの研究をしているチームの女の子だよ。確か名前は宇田君じゃなかったかな」

 宇田……論文……。頭の中にそれらの単語を並べたとき、引き寄せ合う磁石のようにすぐ繋がった。

 直後、お昼を告げるチャイムが鳴ると、俺は何食わぬ顔で研究室を出た。


「上村君から呼び出してくるなんて珍しいね」

 いつも通り非常階段には俺たち以外には誰もいない。宇田ヒトミは俺がいつももたれかかっている柵に身を預けた。

「もしかして、告白とかされちゃう感じ……?」

 話相手が同期だからおどけているのか、いつもこの調子なのか。どちらにせよ全く理解できない。

「お前、瀬尾と行ったS高の文化祭で豚汁飲んだだろ」

「なになに、何で知ってるの。もしかして上村君もいた?」

「飲んでから、何か違和感ないか?」

 違和感という言葉に違和感を感じたのか、少し顔が曇るのが分かった。やはりこいつも……。

「何よ違和感って。意味分かんない。てか、質問を質問で返す男は嫌われるよ」

 そう言って不自然に作られた笑顔は、いつもあの男といるときには絶対に見せない顔。宇田は俺を横切り、非常階段を出ようとドアノブに手をかけた。

「じゃお前の首元のxのマークも、急にすべてが分かって、ありえない早さで完成してしまった論文はどう説明するんだ」

 時間が止まったかのように宇田の手が動かなくなる。

「何で知ってんのよ……」

 そっと振り返り睨むような上目遣いで俺を見た後、非常階段の二段目に座り込み、両目を手で覆った。

「瀬尾にはこのこと言ったのか?」

「言ってない、言えるわけないじゃない。だって、ナオトは何もないんだから……」

 ……何もない?

「あの日から、おかしくなっちゃったのよ、論文だって、ナオトにならきっと喜んでくれると思って書いたのに……」

 矢継ぎ早に飛んでくるヒトミの言葉に聞き返すタイミングを失う。

「ねぇ、どうやったら治るのよ。知ってるなら早く教えなさいよ……」

 覆っていた手を離し露になった両目から、マスカラを含んだ黒い涙が溢れる。

「治すなんて、馬鹿言うなよ」

 吐き捨てるように言ったその言葉は更に化粧を崩した。


 あの豚汁を飲んで何もないだと。そんなことあるわけない。現に宇田も、実験結果でも、血の影響は証明されているじゃないか。

 俺は風で靡く白衣の裾をぐっと握りしめ、研究室へ戻る足取りを速める。

 あいつのやりそうなことは全部分かっている。汚ねぇ手口で出世を企むあいつのことだ。どうせまたあの時の論文と同じように、俺を出し抜こうと陰で動いているに違いない。パンパンに膨れ上がった妄想が脳内を埋め尽くしたとき、気づけば実験用の冷蔵庫から、二本目の採血ホルダーを手に取り蓋を開けていた。

 視界を独占する真っ赤な血が俺の全細胞を奮い立たせ、次第に手が小刻みに震え、息が荒くなっていく。もう誰にも負けられない、あの頃に戻らないために、勝ち取らなければならない。圧倒的勝利を。

 目をつぶると、瞼の裏にこびりついた昔の記憶がどんどん剥がれ落ちていく。俺はその落ちていく記憶一つ一つに中指を立てた。

 ホルダーから伝う冷気が唇に触れる。

 もしも神と口づけを交わしたとき、きっとこの感覚に限りなく近いのだろうと思った。

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