第18話
昼休みを告げるチャイムが鳴るや、上村数馬と書かれた社員証を首から外し、出勤前にコンビニで買ったパンを手に取り研究室を出た。そして食堂へ向かう社員たちを避けるようにして廊下を進み、非常階段に繋がるドアノブに手を掛けた。食堂で食事をとらなくなった理由はいくつかあるが、何よりも一番の理由はあいつらの顔を見なくて済むということだ。特にあの同期の女。大した研究論文も書かずに入社し、期待されている人間に媚び諂うことしかできないあの態度が気に食わない。思い出すだけでパンを咀嚼する力が強くなる。
白衣のポケットからスマホを取り出し、お気に入りから、いつもの掲示板にアクセスする。様々なスレッドで行われている誹謗中傷の言い合いを見ていると心中が満たされる感覚に気づいてから、すっかりと昼食時の日課となった。
そして履歴の欄から、<S高天才クラス>と書かれたタイトルのスレッドをタップする。センター試験という身近な出来事で且つ、前代未聞であるが故、連日掲示板の盛り上がりはとどまることを知らなかった。他のスレッドよりも何倍もの速さで進行し様々な憶測が飛び交う中、期末試験で満点をとれなかった二人の名前と、顔写真が数時間前に晒されていた。それに対し蛆虫のように群がり、誹謗中傷している奴らのコメントを見ながら豪快にパンを齧った。
俺はこの出来事に関して、人一倍関心を持っていた。それは、俺が今研究開発に携わっている認知症防止のための知能向上薬について重なる部分があるからだ。常識的に考えて、夏から冬にかけていくら追い込んで勉強したとしても、これだけ急速に知能を向上させるのは不可能に近い。S高の特進クラスの生徒ならまだしも、普通科の生徒なら尚更だろう。
しかし、現にこのクラスほとんどの生徒たちは期末・センター共に満点という偉業を成し遂げている。メディアは先生たちを褒め称えているが、それなら他のクラスの生徒も少なからず同じ結果となるだろう。だとしたら、他に何か知能を爆発的に向上させた出来事があったとしか思えない。それが何か分かれば、俺の研究も大幅に前進するに違いない。そうすれば、瀬尾の伸びた鼻を……。
スマホを閉じ、暗くなった画面に映った自分の顔から目を逸らした俺は、残っていたパンを全て口に入れ、噛み砕くように咀嚼した。
昼食が終わってから半休をとり、自家用車でS高に向かった。正門前には報道陣が詰め合っており、数名の警察官が門の前を警備している。こんな所ではあの晒されていた二人のどちらかが出てきたとしても、話を聞ける状況ではないと判断し、一か八かで裏門に回り待機することにした。
俺は今一度、スマホで保存しておいた二人の名前と画像を目に焼き付けるように確認した。
「明石マサル……」
その名前を呟いたとき、声と消えかけていた記憶と呼応した。
マサルってまさか……。
下校時刻を知らせるチャイムが鳴ると、正門の辺りが慌ただしくなったのが逆側にいても分かった。俺は缶コーヒーを握りながら車内でただひたすら待ち続けた。すると、一人の男子生徒が先生に連れられ、裏門から出てくるのが分かった。そして、先生が辺りを見まわし報道陣がいないかを確認した直後、一人の男子生徒が裏門から出てきた。
願ってもないチャンスに身震いしながら、俺はすぐに車から飛び出し、その男子生徒に声を掛けた。
「明石マサル君、だよね」
「……メディアの方ですか」
顔を俯かせながら話す姿は、どこか憔悴している様子にも見えた。俺は咄嗟に、「違うよ」と白い息を吐きながら名刺を渡す。
「m製薬会社 上村 数馬……かみむら かずま……」
たどたどしく名刺を読み上げた直後、何かに気づいたように顔を上げ、俺の顔をじっと見た。
「そう、シンの兄だよ」
昔、食卓でシンが口々にマサルという子の話題をだしていた。そして、こいつが家に遊びに来たとき、数回だけ顔を合したことがあった。
「もう、何十年も前だから覚えてるわけないか」と無理矢理取り繕った笑顔で微笑んだ。同時にこの偶然は神からの贈り物だと思った。あいつを出し抜くために、与えられるべくして与えられたのだと。
俺は家まで送るという口実で明石マサルを車に乗せ、今回の騒動について根掘り葉掘り聞いた。
「え、ちょっと待って」
自分の耳を疑った。俺は路肩に車を止め、その疑った耳から入ってきた話を落ち着いて整理する。
「じゃぁこの騒動の発端は、皆がシンの血が入った豚汁を飲んだからだってこと?」
「はい。僕にはそうとしか思えないんです」
そんな話、掲示板では誰も書いてなかった。まぁ書いたとしても馬鹿げた話だと思われて無視されるのが関の山だろう。俺の様な職種に携わるごく一部の人間を除いては。
「アメリカで似たような実験があったみたいなんですけど、詳しいことは分からなくて。もう、本当に皆変わってしまって、俺、どうすればいいのか分からなくて……」
目一杯の憂いを含んだマサルの声が、ハザードランプの音に掻き消されていく。アメリカの実験とは多分、『犯罪血液(クリミナルブラッド)実験』のことだ。ただ、もうそんな落ちこぼれ学生の戯言なんてどうでもいい。
あいつの血が、パンドラの箱を開ける鍵になるかもしれない……。連打される太鼓のように鳴り響く鼓動を何とか落ち着かせ、これっぽっちも無い慈愛心を絞り出し問いかけた。
「大丈夫だよ、きっと俺が何とかする。後、最後に一つだけ聞いていいかな?」
紙エプロンを首から掛け分厚いステーキ肉をナイフで切り分けていく。こいつと二人できりで飯を食べるのは、記憶を辿る限り初めてた。
「シン、肉好きだったよな」
「う、うん」
シンの返事はどこかおぼつかない。そういえば名前を呼んだのも、初めてに近い。
「受験勉強順調か?」
「センターも満点だったし、T大医学部も十分に狙えると思う」
T大医学部。その単語を聞いただけで吐き気がする。
「他のクラスの生徒も満点だったそうだな」
「きっと、皆勉強したんだよ」
特に気にしていない様子で肉を口に運んでいく。本当は黒い感情が渦巻いているのに、それをひた隠し善良な人間装う。幼い頃からずっとそうだ。
「兄さんは仕事どう」
その呼び名に、ふとそう呼ばれてたことを思い出す。
「それがちょっと行き詰ってるんだ……」
さっきの落ちこぼれ学生の声を精一杯真似てみる。
「だからご飯誘ってきたの」
口角を少し緩めそう言った。その顔を見た瞬間、ステーキナイフを持っていた手にぐっと力が入る。
やっぱりこいつも、昔から俺を見る目は変わらない。
俺とシンは幼い頃から英才教育を受け、父と同じ日本最高峰のT大医学部に入り、立派な医者になることを望まれていた。だからテストの点数が少しでも落ちれば、両親の目元からは笑みが消え何日か目を合わせてもらえなかったりもした。そしてそうした人格を根元から否定されたような孤独感を味わされる度、両親を恨んだ。だが、どうあがいても一人では生きていけない当時の環境を受け入れざるを得なかった俺は心を無くし、いつしか両親から嘘の愛をもらうためにひたすら勉強するだけの機械となった。それだけが唯一、上村家の長男として存在することができる方法だった。
それはシンも例外ではなかった。しかし、あいつは生まれたときから頭の中に答えが入っていたかのように勉強ができた。そしてテストでは毎回息をするように満点をとり、その度に父親に褒められた。いつも俺の目の前で。
そのシンの姿を見る度、脳内に危険を知らせるアラームが鳴り響いた。こいつは敵だ、俺が必死に努力して作り上げた居場所をいとも簡単に奪う敵。シンをそう捉え始めたとき、兄弟という関係は中身のない形だけのものになった。
俺は自分の身を守るためひたすら戦った。シンより勉強の飲み込みが遅い分、量でそれを補った。高校に入ってもそれは変わらず、ひたすら勉強机に向かう生活を繰り返していく内に、いつしか医者になるという目標すらも忘れ、勉強は最早自分が自分であるために必要な義務を果たす行為となっていた。失敗は一度も許されない。現役でT大医学部に合格することが、この戦いに勝ち、終わらせられる唯一の方法だと、何度も何度も自分に言い聞かせ、ノートにペンを走らせた。
合格発表当日。俺は不合格という画面が映し出されたスマホを片手に公園ベンチに座っていた。
遊具で元気よく遊んでいる子供たちの声も、雲一つない晴天も、もう何に触れても感情が刺激されることはなかった。負けた。このために、全てを捨て戦い続けたのに。帰る場所も、名前も、俺を縁取る全てが、不合格の三文字に掻き消されていく感覚に陥った。
「おう、にいちゃん、悩みごとかぁ」
鼻をつくような酸い異臭を漂わせながら、歯がほとんどないホームレスの老人が話しかけてきた。
「黙れ……」
失望で希釈されたその言葉は、子供たちの騒ぎ声に飲み込まれる。
「おれも、わかいときはいろいろ……」
「黙れって言ってんだろ! お前みたいに何も考えていないような人間とは違うんだ! 早く消えろっ、クズ!」
一気に鼻息が荒くなると同時に、吸い込まれた異臭が喉を通り、大いに噎せた。老人はその大声に少し驚いた表情をした後、「そんなけおっきな声でるんじゃったらだいじょうぶ」と呟きながら離れていった。
何が、何が大丈夫なんだよ。
「くそっ!」
どこにもぶつけようがない衝動に駆られ、勢いよく頭を掻きむしり、ベンチに倒れこむように横たわった。理不尽だと思った。何故同じ血のつながった兄弟で知能に差が生まれるのか。こんなにも努力しても縮まらないこの差を努力以外でどう埋めればいいのか。その方法さえも、義務教育の知識しか入っていない頭で考えても思いつくはずもなく、気づけば日はすっかりと落ち、公園には俺一人だけだった。
あいつの頭脳が欲しい。一生両親に認められ続ける、完成されたあの頭脳が。暗闇を辛うじて照らす今にも消えそうな街灯の下で、非現実的な願望を唱え続けた。
俺は握っていたフォークとステーキナイフをゆっくりとテーブルの上に置く。
「……あぁ。そうだお前の助けが必要なんだ」
お前の血が。
喉元まで出かかったその言葉を口の中の油と一緒にコーラで流し、俺たちは店を出た。
車を三十分程走らせ、会社の研究室へ到着した。
シンには「どうしても研究で血縁者の血がいる」という理由で半ば強制的に採血に協力してもらえることになった。シンは兄さんのためならと表向きは快く受け入れてくれたが、裏では何を考えているか全く分からない。
ただ唯一の救いは明石マサルと不仲だったことだ。もし、シンが自分の血の事を知っていれば絶対に協力しなかっただろう。
「少しの間だけ、我慢してくれ」
シンの浮き出た血管に採血針を刺し込み、ゆっくりと真空採血管を引いていく。
明石マサルが言っていたアメリカでの犯罪血液実験の話。実はあの話には続きがある。インターネットで検索できる範囲では、研究チームの資金難で中止になったという情報までしか得ることが出来ないが、実験はスウェーデンに移り、実は今も同じ研究チームで続けられている。これは一部の研究者しかアクセスできないデータベースに保管されている超機密情報になっている。なぜなら最新の論文で、マウスではなく人間で試した結果、同じ効果が得られたことが分かったからだ。つまりこのことが世に知れ渡ると、これを悪用しテロなどの悪事を起こす人間が出てくる可能性があるという研究チームの判断により、表向きに情報が公開されなくなっていた。
「後少しだ」
二本目の採血ホルダーに差し替え、再び真空採血管を引く。
ただどんな犯罪者の血でも凶暴になるのではなく、そこにはある規則が存在した。それは殺人罪で服役している囚人の血、すなわち人を殺した人間の血を注入すると凶暴になり、殺した人数が多い囚人の血程、より凶暴になるというものだった。
もしも明石マサルの言っていることが全て真実で、この事例にシンの血が当てはまり、それが凶暴性ではなく知能に置き換えられるのであれば……。
考えただけで舌の裏側から大量に分泌されていく唾液を、シンにバレないように少しずつ喉に流し込み処理する。
ましてや大鍋に入り、一滴の血が何百倍と希釈された状態の豚汁を飲んだだけで、あのクラスの生徒たちがこれほどまでに知能が向上するとなれば、原液で摂取した場合の効果は計り知れない。
「ありがとう。助かった」
二本の採血ホルダーを実験用冷蔵庫に入れ、俺たちは研究室を出た。これほど明日が待ち遠しく思えるのはいつぶりだろう。シンを家に送り届けるまで、再び高鳴ってきた鼓動を抑え、嘘の冷静さを纏った。
「じゃぁ受験頑張れよ」
「ありがとう兄さん、久しぶりに話せて嬉しかった」
兄さん、か。うざったらく思っていたが、今日だけは我慢してそう呼ばせてやる。明石マサルもシンも、二人とも何かに飢えている人間でよかった。こちらが優しさを差し出せば、簡単に落ちてくれる。社会ではその脆さが命取りになって、誰かに騙され、駒にされるというのに。
「ま、そんなこと教えるのはまだあいつらには早いか」
そう一人で呟きながら、寮へ戻る車内のラジオから流れる曲の音量を上げる。気に入りの曲だったが、気づけば堪える必要がなくなった自分の笑い声に埋もれ、何も聞こえなかった。
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