第17話

もう何十年も改装されていない別棟にある冬の美術室はとても寒かった。俺もアサミもマフラーをしたまま机に腰かけ、登校日の誰もいない美術室でまたアサミと二人きりとなった。だが、あの時とは天と地ほど、俺たちを包む空気は違う。

「皆、私たちの名前が入ってないことに気づいたとき、私のこと物凄い冷たい目で見てきた」

 アサミは目を俯かせながら、両手で大事そうに持っているカイロをじっと見つめる。

「なんで皆満点取れたのかな。やっぱり集団カンニングしたのかな……」

 本当にそうなら、ヒロユキとゴリが俺に話さなかった理由が分からない。

「でも、もしやってないとしたら。私たちが変なのかな……」

 そんなわけない。なのに、アサミの今の気持ちは痛いほど分かった。

 私たち変なのかな。

 変、ヘン、へん。

 その言葉は雪のようにゆっくり俺の心に落ち、積もることなくさっと溶けていく。目をつぶると、小学生のとき、教室の隅の席で、絵を描いている俺の後ろ姿が見えた。お父さんがいない、勉強もできない、友達もいない。皆が当たり前にできて自分だけができない。そんな色々な『変』を背負って孤独になっている小学生の俺の背中はとても寂しそうで、思わず後ろからそっと抱きしめた。

 『ずっと同じことで悩んでいるね』小学生の俺がそう呟いた。

 確かにそうだ。自分だけが皆と違う方向を向いていると気づいたとき、人はその孤独感から辛さを感じる。そして、そんな自分を肯定するために、存在していいと思えるように理由を探す。小学生の頃、俺にとってのそれは紛れもなく母親だった。

 そして今、同じようなこの状況を打破するために、二人で同じ方向を向いて少しでも自分たちを肯定し合ためにも、俺が文化祭で見たことを洗いざらい全て話した。

 あの日、シンの血が入った豚汁を皆で飲み、ほぼ全員の首元にxのマークが現れ、シンが持っている『勉強の才能』が感染したのではないかということ。しかし何故かそれは、俺とアサミだけは感染せず、アサミは文化祭の一か月前からマークが現れ、更にその一か月前に現れていたサリは感染し、満点を取っているということ。だけど一番の発端であるはずのシンとぶつかったときに見た首元にはxのマークはなかったということ。

 アサミは俺の推理に近い話を、何の疑いもなくいつものように聞いてくれた。一体全体、このxのマークは何なのだろうか。全てが繋がっていそうで、まるでバラバラなこの現象にも何か共通点があるのかもしれない……。

 脳内で様々な情報が錯綜し頭がこんがらがった俺は、最後の頼みの綱に縋るようにスマホを開け、さっき開け損ねたネット記事を開いた。それはアメリカでの二年程前の実験で、マウスに凶暴犯罪者の人間と穏和な一般人の人間、それぞれの血液を注射すると、前者のマウスはより凶暴になり、後者に頻繁に襲い掛かるようになったというものだった。また、その凶暴なマウスに穏和な人間の血を注射しても凶暴性が治まることはなく、やがて自分自身に攻撃を始め、死亡したというものだった。そしてその記事の最後には、そのメカニズムは解明されないまま、実験チームの資金難で実験は中止されたと記載されていた。 

 もしこの例が今回の現象に当てはまるのであれば、俺の推理は大筋合っていると考えられる。だがこれだけだと、アサミとサリだけ皆と違う時期にマークが現れたのかが説明がつかない。それに、シンの一部が皆の体に入りマークが生まれたのなら、九月一日、俺の一部がアサミの体に入ったということになる。これが説明できれば、凶暴的なマウスに他の血を注射しても、凶暴性が変わらないということから、俺の『何らかの才能』に先に感染したから、アサミは豚汁の中に入っていたシンの才能に感染しなかった、という理論は一応成立することになる。だが完璧に立証させるには、もう一つ乗り越えなければならない壁がある。

「俺の才能……」

 ぼそっと吐いた言葉がアサミのレーダーに引っ掛かると、潤んだ瞳で俺を心配そうに見る。

『才能があるから、そんなこと言えるんだよ』

「まさかな……」

 ずっと信じてこなかった得体の知れないもの。だが、信じたくないという気持ちが先行し。脳内でフラッシュバックしたその記憶に背を向けた。


 翌々日。

「本当にすまなかった」

 アサイ先生は教卓に頭がつきそうになるぐらい、深々と下げた。

 結局、数人の先生が見守る厳重態勢の中行われた再試験でも、二十八人全員が全科目満点を取った。その結果に驚きはしなかった。ただ昨日に増して、皆の先生に対する態度があからさまに横皆になっていることに、不気味さを超えた恐怖を感じた。それは先生が頭を下げている今このときも、先生が教室に入ってくる前の友達と談笑していた姿とほぼ変わっていないことが物語っていた。

 アサイ先生は弁解交じりに、長々と皆を褒め称え続けた。途中で涙を流しながら話す場面もあったが、それは嬉し涙なのか、それとも自分の間違いを認めざるを得ない状況になってしまったが故の悔し涙なのかは分からなかった。

 しかし、目に見える形としてこのような結果が出てしまった以上、受け止めざるを得ない事実になったことには違いはなかった。

「そーゆーのもういいからさぁ、土下座してよ」

 細く長い足を組みながら言ったミカのその三文字は、皆の心にあった最後の良心の砦を打ち砕いた。

「確かにそうだよなぁ」「あれだけ俺らのこと疑ってたんだから」「それぐらいしてもらわないと、皆許せないよな?」

 教室のあちらこちらから、政治家の野次のような声が先生に飛び、やがて二十八人の手拍子が鳴り響く。

 どーげーざ!、どーげーざ!、どーげーざ!、どーげーざ!、どーげーざー!

 その言葉に倒されないように、先生は皆の前で怒鳴っていたときと同じく、教卓の端を力いっぱい握る。が、その手は悲しみで小刻みに震えていた。

「やりすぎだろ!」

 気づけば俺は席を立ち、声を上げていた。自分でも、発したことのない声量で、手と足の先が徐々にと痺れていくのが分かる。一瞬にして教室は静まり返ったが、その沈黙も束の間だった。

「うるせーな。点数とれてないやつは黙っとけよ」

 点数の高さで人間の価値が決まる。自分はその社会の中で生きていることに、改めて気づかされる。

「いいんだ、マサル。これは先生の責任だ」

 そんなこと、あっちゃいけないはずなのに。

「にしても、ここまでやる必要ないじゃないですか!」

 それはありったけの正義感に包まれたアサミの声だった。

「馬鹿がもう一人が騒ぎ始めたぜ」「これが本当のバカップルだな」

 嘲笑、冷笑、苦笑い。それを皮切りに俺たちに対する、冷酷無比の誹謗中傷が始まる。多数派が正義となり、少数派は悪となる。それがたとえ、間違っていたとしても。

「アサミちゃんさ。いい加減そういう偽善者ぶるのやめたら。ずっと目障りなんだよね、それ」

 サリの言葉に周りの女子がくすくすと笑った。アサミと仲が良かった、あの子までも。

「ねぇーせんせ、早く土下座してよ」

 普通に考えれば、そんなことする必要などない。だが、他の先生に比べ人一倍正義感が強いからか、体育会系出身だから学生時代に染みついたルールと仲間への忠誠心そうさせるのか。先生はゆっくりと教壇に膝をつき頭を下げた。

 カシャ。というシャッター音と共に、先生と俺たちを結んでいた何かが切れる。

 カシャ。カシャ。カシャ、カシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャカシャ──

 土下座姿でフラッシュを浴びる先生の姿は、謝罪会見をする芸能人よりも見るに堪えなかった。


 放課後。席を立つ気すら失い、茫然としていた俺に二人は優しく声を掛けてきた。

「マサル、わるかった。あのとき、俺なにも言えなくてさ」

 ゴリは俺の隣に座り、エナメバックを床に置きながら言う。理もないと思った。だけど、心を許している数少ない友達だからこそ、確認しておきたいことがあった。

「自分のこと、おかしいと思わないの……」

 どれだけ学校のテストで点数を取ったとしても。人間の価値はそんなものじゃ決まらないということを。

「確かに変だと思うけどさ。でも、実際答え分かるんだから仕方ねぇというか」

 頭を掻きむしりながらゴリが言う。

「このマークが何か関係してんだろうけど、俺らにしたらメリットしかねぇんだよな。っていうか」

 いつもの黒色のリュックを背負ったヒロユキが俺の前に立つ。

「何でマサルは満点取れてねぇの?」

 このときばかりはヒロユキの無邪気な好奇心が鋭く尖った針に見えて、どう反応していいのかも分からず、俺にはマークがないということも、話す気になれなかった。

「取れないからだよ」

 そう言って席を立ち、二人の隣を横切って教室の出口へ向かう。

「皆助かってるんだぜ。いい大学に入れて、ゆくゆくは大企業への就職も夢じゃないんだ。もしそうなれば、その金で店の従業員雇えるし、母さんに旨い飯も食わせてやれる」

 ゴリの声で足を止めた俺は振り返り、頬に一滴の滴を垂らしながら、二人を睨んだ。

「そんなに金を稼ぐことが大事かよ。もう火事で誰もかなしませたくないって、だから消防士になりたいって、あれは?だったのかよ!」

「ヒロユキも、バンド組んでメジャーデビューするって、夢諦めんのかよ」

 俺の言葉を一蹴するように、ヒロユキは鼻で笑う。

「マサルは良いよな。絵の才能があって、賞もたくさん獲って。でもな、マサルみたいに好きなことだけやって生きていけるほど、世の中甘くねぇんだよ」

 またその言葉のせいで、大切な人との壁が生まれていく。

「聞いたぞ、アサイ先生から。P美大から推薦きてんだろ。いいよな、将来約束されてる奴は気楽でよ」

 まだ決まった訳じゃない。そんな言葉も、もう発するだけ無意味だと悟った俺は逃げるように教室を出た。


 二〇二十年一月十六日月曜日。

 十四日、十五日に行われたセンター試験の自己採点では、試験を受けた生徒全員満点だった。

 その結果に先生たちはただただ唖然とした。もちろん、他のクラスからも懐疑的な声が相次いだが、誰も首元のマークについて話すことはなかった。そして、俺とアサミ以外のほとんどがT大学を志願し、センターを受けておらず、既に専門学校に行くことが決まっていたミカやその他少数の生徒は、まだ願書が間に合う有名私大へ進路を切り替えた。

 連日、風の噂を聞きつけた各メディアが学校に押し寄せた。そしてどのメディアも『天才クラス』と銘打って俺たちのクラスを報道した。連日の取材で、各教科の先生たちはもてはやされ、他のクラスと何ら変わらない授業をし、集団カンニング疑っていた先生達も、やがて自分たちの功績だと語るようになった。

 ネットニュースや各SNSの一部では『生ける都市伝説』として語られるようになった。有名ネット掲示板では関連スレッドが乱立し、詳細を突き止めようとする者たちが続出した。その中で真っ先にスポットライトが当たったのは、各種試験で満点をとれなかった俺とアサミについてだった。そしてその数日後には修学旅行の集合写真と一緒に、俺とアサミの名前が掲示板に出た。ネット上にあるはずのない集合写真がアップロードされているということは、多分クラスの誰かが面白がってリークしたのだろう。

 そして当然の如く俺たちに対する誹謗中傷が始まった。

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