第16話
二〇一九年十二月十六日。
赤点を取らないような最低限の試験勉強しかしなかった俺にとって、期末試験期間中のほとんどは睡眠時間となった。
コンクールの結果発表は二月上旬で、賞が獲れなければ、進学は諦め、独学で絵を描いていくつもりで、他の美大への進学の選択肢はなかった。
チャイムが鳴り、問題用紙と答案用紙を裏返す。今日最後のテストは数学だった。
大問の数が大きくなるごとに問題の難易度が上がっていき、結局、解答埋められたのは大問三の途中までだった。
俺は腕を枕にして、そのまま机に突っ伏した。ミカのあの一件があってから、シロタ先生が誰かを教壇に上げることはなくなった。先生には申し訳ないが、解答を書き終わった後のあの慌てた顔は傑作だった。いつ思い出しても吹き出しそうになる。
あれからミカがあの問題を解けた理由も、首元のマークのことも、それが俺にだけないことも、分からないままだった。
今日の今日まで誰も体の異常を訴えることなく、皆の頭の中では覚えた英単語があの時の記憶を端へ追いやり、あれだけ騒いだことも、今になっては誰かの卒業文集の一行にまとめてしまえそうな程、些細な出来事になっているのかもしれない。
教室全体から皆のペンを走らせる音が息つく暇もなく鳴り続ける。一枚の紙に期待と不安を載せ続け、未来への道筋を見出していく作業は、絵を描くときとすごく似ていた。
◇
二〇二〇年一月六日。
バンッ。
朝礼のため教室に入って来たアサイ先生が教卓の前に立つや、大きな両拳を落雷のように教卓に落とす。同時に談笑していた皆の声が一斉に止まり、一瞬で変わったピリついた空気に押されるようにして、各々自分の席に着いた。
年が明け冬休みも終わった登校日初日の今日は、去年に十二月に行った期末テストの返却日だった。
「いきなりで悪いが机に顔を伏せてくれ」
先生は鼻息を荒げ、目の奥からは怒りが見え隠れする。皆は近くにいる友達と視線を合わせ声にできない疑念を確認し合いしながら、ぎこちなく顔を伏せていく。
「期末試験でカンニングをしたやつ、正直に手を挙げてくれ」
皆の背中からクエスチョンマークが滲み出る。もうすぐセンター試験だというこの大切な時期に、ましてや大学入試にもほとんど関係ない成績を、リスクを冒してまで取りに行く生徒なんているのだろうか。
「顔を上げてくれ」
納得した展開ではなかったのだろう、先生は今にも爆発しそうな怒りをぐっと抑えるように溜息を吐いた。
「俺はお前たちの担任になって以来、皆に対して嘘をついてこなかったつもりだ。だから、皆も正直になってほしい」
処理しきれなかった怒りで教卓を掴む手が震えている。先生の真ん中で渦巻いている黒いものの深さは到底計り知れない。
「何故集団カンニングなんてしたんだ」
集団。その二文字は自分だけは関係ないと思い込んだ一人一人に、強く当事者意識を埋め込んだ。
「証拠、あるの。先生」
単純に疑問に思ったことさえ口にするのが難しいこの重たい空気の中で、ミカはあっさりと皆の心の声を代弁した。すると先生は早足でミカの前まで行き、胸ポケットから四つ折りになった学年順位表を取り出し、突き出すように見せた。
「しらばっくれるのもいい加減にしたらどうだ、菊本」
普通科 学年順位表
1位 菊本美香
英語 100
数学Ⅱ 100
数学B 100
現代文 100
古典漢文 100
生物 100
化学 100
物理 100
地理 100
世界史 100
計 1000点
そこには同率一位で俺とアサミ以外の三年a組の生徒たち、二十七人の名前が連なっていた。
「……嘘だろ」
「こんなあからさまな点数取っといて、よくそんなことが言えるな。どんな方法を使った? 言ってみろ!」
先生の怒りは教育指導者という見えない壁にぶつかりながらも、その頂点のぎりぎりを彷徨っていた。もし教師という立場ではなかったら、怒りが爆発し、既に何人かは病院送りになっているかもしれない。
「だからやってないって。少なくとも私はね。ていうか、学校も決まってるのに何でわざわざカンニングするのよ」
「赤点を逃れるためだろう。それがエスカレートした結果がこれじゃないのか⁉」
順位表を強調する度に紙に力が入り、シワが入っていく。
「違うってば! ただ分かるの。問題を見たら解き方が頭に浮かんでくるんだよ、それを答案に書いただけ」
ミカは少しでも先生と同じ目線で話そうと立ち上がり、冗談のようなことを平然と言ってのける。
「馬鹿にするのもいい加減にしろ! そんな話、信じてもらえると思っているのかっ⁉」
それに刺激されついに先生の怒りが溢れると、あろうことかミカのポロシャツの胸倉を掴み、自分へと手繰り寄せ──その瞬間、「先生、実は俺も」とゴリが二人の会話に割って入った。
「……?」
「俺も……」「私も……」とその声に共鳴するように皆が口を開き始める。その異様な光景を目の当たりにしたとき、先生の表情に宿っていた怒りはスーッと引いていき、全てを諦めるかの表情を浮かべながら教壇に戻った。
「明日、別室で二十八人全員再試験を行う。今のうちにカンニングを認めるやつはこの後職員室に来い。特別措置を考えてやる。以上」
限りなく失意に近い驚きの声が皆の口から薄く漏れる中、先生は吐き捨てるかのようにそう言い、教室を出た。
ミカが証明問題を完璧に解いたときと同じ違和感が俺の体を包む。
「どうする」「いや、どうするって。もう一回受けるしかなくね」「だな。でも、なんか全然不安じゃねぇわ」
声のする方向をつい睨むようにして視線を向ける。なんで、不安じゃないんだ。
「確かに。この余裕どこから来てんのって感じだけどな」
会話がおかしい。そして、いつもその空気をいち早く感じ取り、俺に報告してくるヒロユキも何故か皆と同調している。変だ。だけど、誰もそれを話にしない。
「ていうか、逆に満点じゃねえやつ誰だよ」
皆、餌に群がるハイエナのように、黒板に貼り出されたくしゃくしゃの順位表に集まっていく。それを背に足早で教室を出た俺は、短い歩幅で逃げるように下足場へ向かった。
文化祭、シンの怪我、飛び散った血、皆で飲んだ豚汁。
徐々に鼓動が早くなり、頭に血が巡っていくと共に、違和感と一緒に脳の片隅にしまわれていた記憶が次々と再生するスライムのように一つに繋がっていく。
首元のxマーク、ミカの数学の授業、全員満点の期末テスト。
「まさか……」
手を震わせながらポケットからスマホを取り出し、検索窓に文字を打ち込む。
<才能 感染>
「……」
生唾を飲み込み検索ボタンを押した瞬間、一瞬目の前が暗くなると同時に、どんっ、と人間の肉と肉がぶつかり合う鈍い音がした。
「……ごめん」
顔を上げると、右手首に包帯を巻いたシンが俺と同じ姿勢で尻餅を着いていた。
「……こちらこそ」
恋愛漫画みたいな再会だった。もう校内では会わずに、そのまま卒業すると勝手に思っていた俺は言葉を喉に詰まらせていると、右の鼻の奥から温かい液体が出ているのが分かった。俺は急いでそれを右手の甲で血を止め、あるはずのないティッシュを探していると、シンが静かに差し出してくれた。
「ごめん。襟のところに血、ついた」
まじ、と言いながら、シンはポケットのボタンを二つ外す。俺は貰ったティッシュで甲についた血を拭おうとしたとき、ふと手が止まった。
血……。
シンは襟の内側まで浸透していた血の付いた部分を、ティッシュに染み込ませるようにして包む。俺はボタンが開き露わになっていたシンの首元を凝視する。
「俺は大丈夫だから。それより待たなくていいの、後ろのあの子」
「後ろ?」
そして、『それ』が無いことを確認すると、首元から目線を剥がすように後ろを振り返り、シンの視線の先を見た。
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