第22話

「上村シン君でよかったね」

「はい。あの、サリに何かあったんですか」

「実はさっき教室内での死亡が確認された。死因は心停止だったようだ」

「……そんな」

 彼は俯き、受け止められない様子を見せた。

「大切な人を亡くして辛いだろうが少しだけ協力して欲しい。サリさんとは恋人関係だったみたいだけど、何か最近変わったことはなかったかい」

 彼は深く息を吐きながら顔を上げた。全身に纏わりついた憂いは今にも弾けてしまいそうなぐらい膨らんでいた。

「特には……」

「本当に些細な事でいいんだ、上村君だけしか知らないことで」

「夏休み明けぐらいから何故か急に物分かりがよくなったことですかね……。四月からの補習が効いたんだと思いますけど……」

「この学校では四月から補習が?」

 手帳のメモ欄にペンを走らせる。

「はい。特進クラスの恒例行事として、希望する普通科のクラス生に対して補習授業を行うんです。サリとはそこで出会って、五月頃に恋人関係になってから週二回程はマンツーマンで教えてたと思います……」

 <補習、五月、週二回>と書く。

「何か補習の時間に変わったことは? 些細なことでも何でもいい」

 彼は囁き声で「些細……」と呟き、スマホを取り出してラインのアイコンをタップした。

「キスを……」

「キス?」

「明日は両親が出かけるからうちで勉強しようって、八月二十七日に連絡が」

「そしてその日にキスをしたと」

 ぎごちなく首を縦に振る。

「本当にキスだけ?」

 今度は力強く頷いた。

 <八月二十八日、キス>

 そう書き終えると俺は手帳を閉じ、ジャケットの内ポケットにしまうのと同時に一枚のポロライド写真を取り出し、彼の目の前に置いた。

「このマークに何か見覚えないか?」


 事情聴取を全て終えた頃には日は落ち、辺りは薄暗くなっていた。俺は体を摩りながら駐車場に停めてあったシルバーのクーペに乗り込み、煙草に火をつけた。鼻から勢いよく吐き出された煙越しに、マークが写ったポロライド写真を眺める。柿園サリと一番密接な関係にいた彼さえ何も知らないとなると、いよいよ行き詰ってくる。

「何なんだ、ほんとによ……」

 湧き上がってくるイライラを鎮めるように、吸い殻で山盛りの灰皿に煙草を押し付ける。天才クラス、謎のマーク、突然の心停止、補習、キス……。何度読み返しても繋がることはない手帳の中の言葉を眺めていると、手帳の隙間から子供の俺を抱いた母の写真がひらひらと太ももに落ちた。

 そのとき、携帯にf警察署から連絡が入り電話に出ると、電話口から若手警部の声が響いた。

「お疲れ様ですゴドウ警部。早速ですが警部の指示通り、他の生徒の首元を確認しようとしたのですが……」

 濁らせた語尾から、その後の言葉が何となく察しがついた。

「二人を除いた全ての生徒が身体捜査を拒否し、確認が取れませんでした」

 基本的に身体捜査は任意のため、相手側の同意がなければ行うことができない。だが、何故一般の高校生がそんなことを知っているのか。俺は写真を無意識に手に取り、座席に深く座り直した。

「応じた二人の首元は?」

「はい。一人が赤みがかっており、もう一人にはマークがありませんでした」

 確か柿園サリの首元は赤色だった。

「何かマークの事について話さなかったのか」

「それがその二人も事情聴取のときは何も話さなかったんですが……」

 また、語尾が濁った。だが今回は続きを予測することができなかった。

「先ほどになってマークがなかった方の生徒から電話がありまして」

「内容は?」

「……自分は全て知っている、一番偉い人になら全て話してもいい。と」

「分かった。そいつは今どこだ」

「もう署内の待ち合わせ室まで来ています」

 電話を切ると、すぐに日除けに挟んであった車の鍵を抜き、学校を後にした。ハンドルを握っている間は、写真を持っていることさえ忘れていた。

 署に戻り、取調室に入ると膝の上に手を置き、パイプ椅子に浅く腰掛けた一人の少年が肩身を狭め座っていた。

「しかしえらく凝ったことをするんだな、今時の若い子は」

 俺は腕を組み、パイプ椅子に深く腰掛ける。声も椅子が軋む音もこの取調室ではよく響く。

「あなたが一番偉い人?」

 取調室特有の閉鎖的で異様な空気感に物怖じすることもなく、目の前の少年は落ち着いて話す。

「あぁ、そうだ。かつ丼だって食わしてやれるぞ」

 時々冗談を交えるが、少年の険しい顔は会った時から一ミリも変わらない。しばらく沈黙が続いたが、俺は少年から口を開くのを待った。何故今になって話す気になったのか、そんなこと聞くだけ野暮だと思った。

「一つだけ、約束してくれませんか」

 決意の中に垣間見える憂いを含んだ目はさっきの少年の目とよく似ていた。俺も昔はこんな目をしていた。

「あぁ。何でも言ってみろ」

 両肘を机に着いて前かがみになり、顔の前で手を組んだ。

「今から言うこと全て、絶対に信じてください」

 信じる。公人として、国民を悪から守る立場の人間に対して、少年の口からその言葉を出させてしまったことについて落胆すると共に、まるで昔の自分を見ているようでもあった。

 きっとこの少年は昔に一部の大人に裏切られた過去がある。そしてその恐怖で全ての大人を信用できずにいる。だから一回目の事情聴取では何も話さなかったのだろう。そしてこの少年は全てを知っていると同時に弱っている。背負っている目に見えない多くのものから垣間見える憂いは、抱えきれないほどの恐怖が溢れている証拠だ。

 背負っているものを無事達成できるのかという不安、大人に対する不安、そんな大人を信用できない自分を払拭できるのかという不安。しかし、それらを乗り越えなければスタートラインには立てないということ。そして大人の力を借りなければ今背負っているものは達成できないということ。少年は今、殻を破り、全てを晒す決意と不安を持ち、確実に前に進もうとしている。

「分かった、約束する。」

 俺はそっと右小指を差し出した。俺は大人として、いや、同じ人間として手を差し伸べる義務がある。

「男同士の約束だ」

 マサルは一つ息を飲み、ゆっくりと小指を近づけた。


 翌日、一月二十五日。

 フロントガラスから差し込んでくる朝日がダッシュボードの上にある新聞を照らす。どこから情報が漏れたのか、今朝の新聞各社の見出しは、昨日の騒動を大々的に取り上げていた。

 昨日、明石マサルは俺に知っている全てを話してくれた。その話の中で出てきた客として文化祭に来ていた二人組は、他の捜査員を総動員し捜査に当たらせ、俺はもう一度、上村シンに話を聞くため、家から彼が出てくるのを待った。

 そこは高級住宅街で一戸の面積が通常の家の面積に比べどれも数倍はある。だがそれらの住宅の三戸分程はある面積に建てられた白を基調とした彼の豪邸は、その中でも異様な存在感を放っていた。しばらくすると、重々しい音を立てながら開いたガレージから黒塗りの高級車が一台出てきた。運転している男性は白髪混じりのオールバックで、いかにも自尊心が高そうな顔立ちをしている。ここまでの情報は、昨日少年が言っていたことと全て当てはまる。だが、本当に確かめなければいけないことは、こんな視覚的なものから得られる情報ではない。

 埃まみれの吹き出し口からでる暖房を浴びながら、新聞と一緒に買ったアンパンを齧っていると、玄関から上村シンが出てくるのが見えた。俺はそれを咀嚼しながら、クラクションを鳴らし彼を呼び止め、車に乗せた。

「まだ辛いか」

「はい……。まだ実感が湧かないというか、どうしても受け止められないんです。あんなに元気だったサリが急に死んでしまうなんて」

 多感なこの時期に好きだった人を亡くせば、誰だって受け止められないだろう。だが、ここで立ち止まっているわけにもいかない。あの少年のためにも。

「実はお兄さんのことについて聞かせて欲しくてね」

 お兄さんという単語を聞いた瞬間、訝しげになった顔をサイドミラーで確認する。

「サリが死んだことと何か関係が?」

「あぁ、あのマークについて手掛かりになるかもしれないんだ」

 彼の血が入った豚汁を柿園サリ以外の三年a組の生徒が飲み、マークが生まれた辺りから二人を除いて頭が良くなった。しかし、マークと知能向上に何らかの関係があるとしても、飲まずして知能が向上した柿園サリや、飲んだのにも関わらず知能が向上せず、他の生徒とマークの色も違う遠藤アサミ、そのマークすら現れていない明石マサルには当てはまらないことを踏まえると、何か他に条件があるとしか考えられない。

 そして、それを知っている可能性があるのは。

「単刀直入に聞こう。最近、お兄さんに血の話をされなかったか?」

「何でそのことを……」

 投げた言葉が雲に覆われた違和感に当たった音を聞き、俺はすぐ路肩に車を停めた。

「そのときどんな話をした?」

「実験で血縁者の血が必要だからって話をして……。その後、研究所で血を抜かれました」

 間違いない。明石マサルから血のことを聞き、その後意図的に上村シンから血を抜いた。そしてそれ以降連絡が取れないという明石マサルの証言からも、マークの秘密ついて知っている可能性は高い。

「お兄さんの連絡先は?」

 少年は首を左右に二回振った。

「でも研究所の住所なら……」

 俺はその研究所の住所を殴り書くようにメモし、少年を車から降ろした。

「学校まで送ってやれなくて申し訳ない」

「いえ、もうすぐなんで……。それより、何か分かったことがあれば連絡ください」と降り際に携帯番号が書かれたノートの切れ端を渡してきた。

「あぁ、そうするよ」

 俺はそう言いながらハンドルを勢いよく切り、車体を急旋回させた。

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