第23話

 一月二十五日。

「お前、何か匂うぞ」

 研究室の先輩が鼻をつまみながら言った。二本目の採血ホルダーの血を全て飲み干したあの日からは、数分ごとに体中全ての細胞が入れ替わり続けるような感覚になり、一日数十分の睡眠と一食の食事だけで脳がフル稼働するようになった。そして、進展のしの字も見せないリーダーに見切りをつけ、英語、ドイツ語、フランス語の各言語を二日で完璧に習得し、世界上位の売上を誇る会社にそれぞれの言語で書いた論文を送り、製作協力を仰いだ。

「何日も、籠りぱなしだろ、服ぐらい寮に帰って着替えて来いよ」

「はい……」と適当に返事をして非常階段へ向かった。

 何日も同じ態勢でいたせいか、頭がふらつき、いつも開けているはずの非常階段に続く扉もやけに重く感じる。仕方なく扉に体を寄せ、体重を乗せるようにしてドアを開けた瞬間、開いた隙間から目に差し込んできた朝日が炎のように熱く感じ、眼球が丸ごと焼き尽くされたような感覚に陥ると、すぐに扉を閉めその場に座り込んだ。

「あっ、あああああ──」

 うめきながら目を開くと、視界はぼやけ、焦点が一向に定まらない。そこを通りがかった男が気づかいの言葉と一緒に俺の肩に手を置いたが、「触んなっ!」と反射的に手を払いのけ、壁にもたれかかりながら歩きその場を離れた。

 先で微かに見えた喫煙所のベンチに腰を掛け、壁に掛けられた液晶テレビから聞こえる女性アナウンサーの声を塞ぐように両腕で頭を抱える。これはきっと一時的なものだ。そうに違いない。俺は間違ってない。研究では人体への副作用はなかった。だから何の問題もない。そう心に励ましの言葉を無理矢理押し込みながら、脳の片隅で全ての研究結果を片っ端から振り返っていると、白衣のポケットに入っているスマホからメール知らせる着信音が鳴った。

 ぼやけた視界越しに見えたメールの件名には、世界売上トップを誇る米国製薬会社の綴りがうっすらと見える。俺は必死に目をこすり、スマホを目の前まで近づけ確認すると、是非我が社で作らせてほしいといった内容の文面を読み取ることができた。

 これでやっと……。そう滾る気持ちを抑えながら返信ボタンを押そうとしたとき、テレビから聞こえてきた聞き覚えのある単語に手を止められ、顔を上げた。

「昨日、S高校で天才クラスと称されていたクラスの生徒が心停止で亡くなりました。遺体の首元には赤色に染まったxマークが……」

 すっーと全身から血が引いていくと共に、心臓を鷲掴みされたような衝撃が走り──バランスを崩しながら急いでトイレに駆け込んだ。ほんの数メートルの距離だったが肺は悲鳴を上げ、洗面台の前で膝をつく。そして口で浅く早く呼吸を繰り返しながら白衣を脱ぎ棄てると、下に着ていた長袖Tシャツの襟首を微かな握力で下げた。



 三十分程車を走らせ着いたのは、四十階はありそうなガラス張りの高層ビルだった。入るや否や、受付に座っていた二人の受付嬢に警察手帳を見せると、双子のように同じタイミングで顔を見合わせた。

 そのうちの一人とエレベーターに乗り込み、34と書かれたボタンを押した。

「本当に電話でお呼び出ししなくて大丈夫でしたか?」

「えぇ、気になさらず」

 電話だと気づかれ、逃走される可能性がある。こんなに大きなビルだと出口も一つではないだろう。

「上村が何かしたのでしょうか?」

「いえ、ちょっとお話を伺いたくて。彼は普段どんな人間ですか?」

「いたって真面目で好青年な印象ですけど。ただ、最近は研究室に籠りっぱなしみたいで、あんまり顔は見ないですね」

「なるほど……」

 きっと全ての時間を血の研究に注いでいるに違いない。捜査では分からなかった謎も、上村カズマなら知っているはずだ。フロアに着き、何人もの白衣を着た人間とすれ違いながら、研究室に案内された。

「失礼します。すいません、上村はいますでしょうか」

 受付嬢の美声に反応した研究員たちは一斉にこちらを向き、奥の方から一人の男性の声が聞こえた。

「あいつなら多分、寮にいますよ。だいぶ匂ってたんで、朝八時ごろに着替えさせに行きました。ただ、今頃は疲れ果ててベッドで寝てるんじゃないですか」

 研究室の数人が鼻で笑う。

「邪魔してすまなかった。ありがとう」と言いその場を離れた。

「寮はすぐ近くに?」

「はい。西に歩いて三分程の場所に」

 視線を落とし腕時計を見ると針は十時を指していた。確かに着替えだけにしては遅すぎる。

「彼の部屋番号はご存じで?」

「確か、受付デスクに表があったと思います」

 俺たちはなかなか来ないエレベーターを待ちながら話していると、向こうからモップを片手に清掃員がこちらに向かって来た。

「あ、ちょっと、受付のお姉さんや。これトイレに落ちてたんだけど、誰のか分からんから預かっといて」

 女性は困ったようにその白衣を受け取る。

「たまにあるんですよ白衣の忘れ物。いい加減名札つけてくれればいいのに」と腕に抱えたとき、ポケットの中からうっすらと何かがぼやけて見えた。

「右のポケットに何か入ってませんか?」

「ほんとだ」と小さく声を漏らしながら受付嬢が手を入れると、中から『上村 数馬』と書かれた顔写真付きの社員証が出てきた。

 俺は咄嗟に女性が持っていた白衣を奪うように取り、頬の辺りに当てる。

 まだ温かい。ということは、寮には帰っていない。

「今すぐ警備室に連絡して十分以内の全監視カメラをチェックしてください」

 気迫に満ちた表情で迫られた受付嬢は、きょとんとした顔で赤べこのように頷いた。



 俺は研究結果を記した書類を全て寮に隠し、逃げるようにタクシーに乗った。テレビに映っていた女子生徒はシンのラインのアイコンで見たことがある。あれはシンの彼女だ。それを含め一連の騒動を知った警察が俺を訪ねてくるのは時間の問題。そこで俺が作成した全ての資料が押収され、大事になり、騒動の真実がメディアに流れた暁には製薬における優位性は失われてしまうだろう。だから絶対に知られてはいけない。俺が世間から喝采を浴びるまでは、絶対に。

 しかしマークの変色は想定外だった。最初に明石マサルに聞いた話ではマークは黒だと言っていたが、ニュースで報道された死体も、何日も研究室に籠っていた俺も気づけば赤色になっている。日数が経つにつれマークの色が変化することは何故か研究では導けなかったが、このマークはTAGの効果を得ていることを示す信号的役割でしかないという結論は既に研究で証明済みだ。そして効果が持続する時間も血の濃度と量に比例することも全て理解している。豚汁を飲んでいないシンの彼女がいつ感染し、マークの赤色が何を示すのかは分からないが、彼氏彼女の中であればだいたいの感染経路は予想がつく。今回は騒動の中、偶然心停止で亡くなっただけだ。そうに違いない。

「ここで大丈夫です」

 俺は実家の数十メートル程前で降ると、すぐに日光の当たらない陰に入り、怪しい人物がいないか辺りを見回した。とにかく日本を出てメールをくれたアメリカの企業へ向かい話をつける。そこで俺の体からTAGを抜き、商品化に漕ぎ着けることができれば……。そんなことを考えながら実家の方へ向かっていると、あろうことか実家の前に一台のパトカーが止まっているのが見え、咄嗟に踵を返した。寮に移る時にパスポートも一緒に持って行かなかったことを悔やみ、逃げるようにして日光が当たらない場所を求め歩いた。そして二百メートル程離れた公園のベンチに腰を掛けた。

 くそっ、こんなにも早く警察の手が回るなんて。親にも知られてしまった以上、時間をおいて見つからないように裏口から入るしかない。あともう一歩だ。こんなところで捕まるわけにはいかない。俺は何も間違っていないのだから。

 心の中で唱えた声にならない声が、白い息となり口から吐き出される。長袖のTシャツを一枚しか着ていないのに少しも寒さを感じない。これもTAG成分のせいなのか。

「おぅ、兄ちゃん……」

 聞いたことがある声に体中虫唾が走り隣を見ると、あのときのホームレスが腰を曲げながら俺の隣に座った。

「えらくひどい顔してるのぉ、悩みごとかぁ?」

 以前会ったときより歯がないからか、俺の耳が衰弱しているからか、話が聞き取りずらい。以前俺と会ったことは覚えていないようだった。もう十年近くも前のことだ、無理もない。

 公園で遊ぶ子供たちの元気な声、帰らなくてはならないのに帰ることが出来ないこの状況、蘇るあの頃の思い出……。

 いや、違う。俺は変わった。もう何があっても、あの頃には戻らない。

「……なぁ。勝ち組になりたくないか?」

 努力以外で知能の差を埋める方法を知り、その方法で完璧な頭脳を手に入れた。

「わしゃ、今のままで十分幸せじゃよ」

 ホームレスは遠くの何かを眺めるように言った。

「そうやって……、人から与えてもらったチャンスを棒に振ってきたから、いつまでもホームレスなんだよ!」

 俺はズボンのポケットの中に入っているペン型注射器を強く握った。

「ほほ、兄ちゃんにはまだわからんよ」

「そうか。じゃぁどっちが正しいか証明してやるよ」

 素早くズボンから注射器を引き抜き、ホームレスの首元に刺さそうとした。その瞬間、背後から伸びてきた分厚い手が俺の右手首を掴んだ。

「上村 カズマだな」

「人違いじゃないですか」

 睨みつけながら言葉を吐いた。

「これでも言うか?」と男はもう片方の手に握っていた社員証を俺に見せつけてきた。

「とりあえず、その注射器をこちらに渡してもらおうか」

 俺の手首を握る男の力が段々と強くなる。こんなところで、終わるのか……。

 俺は観念したように右手に握っていた注射器を放し、地面に落とした。そして男は社員証をポケットに入れそれを取ろうと俺から目を外したとき、ポケットからもう一本注射器を取り出し、男の手の甲に突き刺し──その瞬間、男は顔を歪めうめき声を上げると共に俺の手を掴む力が弱まると、その隙をつき手を勢いよく引き抜き、強く地面を蹴り出した。

「おいっ、待て!」

 まだ終われない。終われるわけない。

 一歩ずつ地面を踏みしめるが、思うように体が前に進まない。

 あと、少しなんだ。

 やがて重力に耐えきれなくなり、膝から地面へ崩れ落ちていく。

 嫌だっ、こんなところでっ……。

 ひどく息が荒れ、気づけば指一本すら動かすことができなくなっていた。

「公務執行妨害で……」

 どこかから降ってくる声もぼんやりとしか聞き取れない。何故だ、俺の計算に間違いはなかったはず……。

「不審者確保したが様子がおかしい。至急救急車を要請したい」

 男は俺を仰向けにした後、上半身だけを抱きかかえる形で起き上がらせた。

「おい、さっき俺に何を打った」

「知ってるはずだ……お前も」

 嘲笑うように口角を上げてやった。

「抗ウイルス薬はあるのか?」

「そんなの、あるわけっ……あうっッ!」

 喉と胸の筋肉が収縮し、締め付けられ息ができない。

「おい、どうしたっ⁉」

 男の口が動いているのが見える。だが、何も聞こえない。子供たちがはしゃぐ声も、道路を通る車のエンジン音も、全て耳元で音が遮断されているかのように無音になり、聞こえるのは急激に遅くなる鼓動の音だけだった。

「っああっ……」

「おい、大丈夫か!」

 男は何か俺に叫びながら、頬を叩くが何の痛みも感じない。

 父さん……母さん……。結局、俺は……。視界が段々と滲んでいく。視線を下げ、目に入った腕の皮膚が紫色に変色していくのが見える。

 やがて瞼を開けることもままならなくなり目をつぶると、瞼の裏に次々と体中の血管が破裂していくのが見えた。

 俺は破裂した血管の一つに焦点を合わせじっと見つめる。そして肉眼では確認できるはずのないウイルスを見て──最後の鼓動が体中に響いた。


「突然変異……か……」

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