第11話
「いいよ、今日は私が誘ったんだから」
そういって、ヒトミは俺の財布の上から運転手に千円札を渡した。
「はい、じゃぁ百四十円のおつりね」
「どうも」
二〇一九年十月一日。
俺たちは半休を取り、タクシーでS高の文化祭に来た。カズマも誘ってみたが結局、研究が忙しいからと断られてしまった。
大雨に覆われた本校舎は不気味な雰囲気を纏いながらも、十年前からほとんど変わっておらず、当時の色々な思い出が蘇ってくる。
俺たちは校舎の正面に立っている別館にある理科室へ向かった。室内に入ると、研究部によるロボットに関する研究発表と、過去サイエンスコンクールで入賞したときの盾が飾られていた。少しすると、繋がっている準備室から白髪の先生が現れた。
「あっ、先生~」
「おおう」
ヒトミは両手いっぱいに手を広げ、一目散に白髪の先生の元へ駆け寄り、抱き着いた。周りにいた在校生からの冷たい視線も今のヒトミには関係ない。
ヒトミが目を輝かせ昔話に花を咲かせる中、俺はこっそりと教室を出た。
向かいにある音楽室のドアには紙が貼ってあり、合唱部のミニコンサートの開催予定時間が書かれている。今日は全て終わってしまっているようだ。
その隣の部屋では三年生による卒業作品展示会が行われていた。中に入ると、絵画、彫刻、陶芸が等間隔で展示されていた。美術専攻科の学生が作るだけあって、どれもクオリティが高い。天井から流れるヒーリングミュージックも相まって俺は一つ一つ作品を見るのに没頭していき、気づけばヒトミのことなんてすっかり忘れてしまっていた。日常生活のどこでも使えなさそうな歪な形をした陶芸作品を見終わると、墨汁で『絵画展 テーマ 救い』と書かれた縦長の半紙が壁に貼られている、絵画の展示スペースがあった。
救い……。気づけば息を吐くように言葉が漏れていた。
イーゼルに乗ったB3サイズの木製キャンバスを端から一つずつ見ていく。それぞれの絵画の下には名前、タイトル、コメント、を書く欄が設けられた紙が貼られてある。絵を見ていると、当時苦手だったデッサンの授業で悪戦苦闘しているとき、ヒトミが俺のキャンバスを覗いては鼻で笑っていたことを思い出した。
それぞれの絵には作者が救われたのであろう、ペットや友人、家族の絵がキャンバスの中で生きているかのような臨場感で描かれている。
救い。
絵を見ていると徐々に心の奥から何かがこみ上げてくるのが分かった。
救い。
作者はペットや友人や家族に、一体何を救われたのだろう。救われたことで何を感じ、考え、思ったのだろうか。そしてもう、それによって苦しむことはないのだろうか。
そして俺は、あの日の、あの出来事から、完全に救われているのだろうか。
救い。
その二文字を背景に絵を見る度、胸の奥から溢れそうになるドロドロの液状になった思い出をぐっと抑える。が、最後のキャンバスが目に入ったとき、それが爆ぜるように溢れ、体中の血液と融合した。
<名前 明石 勝> <タイトル 母> <コメント >
「やっぱり、ここにいたー。急にいなくなっちゃったから、びっくりしちゃったよ」
多分、ヒトミが俺に声を掛けた。ただその声は脳内でただ音として処理された。
絵を見るためには本来必要ない視覚以外の器官も、この絵から感じ取れる音、匂い、味すべてを感じ取ろうと、全細胞がこの絵に向いていた。
こちらを振り向いた時の一齣なのだろう。肩まで伸びた黒く真っすぐな髪は、顔の周りでシャンプーの匂いを纏い一本一本踊るように跳ねている。今にも溶けて無くなりそうな薄い唇には、朱色の口紅が塗られており、口元は歯を見せず控えめに両口角が上がっている。鼻の穴は少しだけ膨れ、今にも息遣いが聞こえてきそうな程綿密に描かれている。目は何か愛おしいものを見るときの様で下目瞼が上がり、三日月型になっていた。
俺は絵の中の女性の目の真ん中だけを見続けた。すると、瞳孔の黒色の更に奥の奥にはどこまでも果てしないブラックホールが見えた。それはどこか心地良く、目を閉じると、俺の体を形成している全細胞は黒に吸い込まれ何も感じなくなった。
「母さん……」
「ねぇナオト、ナオトってば、」
ヒトミの声で我に返ったとき、右頬に冷たいものが伝っていくのが分かった。
「ちょっと、聞いてる、てか何泣いてんのよ」
それを拭おうとは思わなかった。出来るだけ自分の肌に残しておきたかった。何故か自分の物ではない気がしたから。
「えーっ、終わってる……」
別館を出て、特進クラスの教室に着いたのは終了時刻の十分前だった。
「お化け屋敷行きたかったのにぃ~」
横目で俺を睨みつけてくる。
「何だよ」
「誰かさんが、美術室で号泣するから……」
「号泣はしてねえだろ」
ヒトミは下唇を前に出しながら入り口でもらったパンフレットを開く。
「豚汁~今なら半額~!」
そのとき、三人組の男子生徒が黄色いメガホンを片手に声を合わせ歩いてくるのが見えた。首からぶら下がっているダンボールで出来た手持ち看板には、100円という数字の上に赤い二重線が引かれ、その上に50と雑に書かれている。
行く当てもなかったので誘おうと思い振り返ると、もう既に、ヒトミは豚汁~という音に引き寄せられるように歩いていた。
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