第10話

父の暴力に耐えかねた、俺と母さんと弟は冷え切った夜の街へ逃げ、それから何日も電車を乗り継ぎ、遠く離れたこの町に着いた。そして母さんは数少ない知り合いの下で一生懸命働き、女手一つで俺たちを育ててくれた。

 だが、またしてもそこで不幸が襲い掛かった。

 俺が弟の病名を聞いた時はまだ八歳で、その『はっけつびょう』という病気がどんなものかも理解できなかった。だが抗がん剤治療が始まり、だんだんと髪が抜け落ちていく弟の姿を見て、徐々に深刻さを理解した俺は、段々と胸を締め付けられていった。ただ、この治療を続け二年も経てば治ると医者は言った。その言葉をただ信じ、俺は毎日面会し弟を励まし続け、母は治療費を稼ぐためもう一つ、ビルの窓清掃の仕事を増やし、休みなく働いた。

 だが、弟は徐々にやせ細っていき、容態は一向に良くならなかった。

 そしてある日、いつものように面会し弟と遊んでいると、母が医者に呼ばれ一緒に部屋を出て行くのが見えた。その後をついて行き、入っていったドアに耳を当てた。

 B細胞性……余命わずか……特別な治療……保険適用外の……、ドア越しに途切れ途切れに聞こえてくる男性の声はとても低く、落ち着いている。

 俺は片目分だけドアをそっと開け、部屋を覗いた。

「その薬はいくらするんですか」

 母が前のめりになり、医者に尋ねた。

「一回の投与で、約三千万円です」

 そんなっ……、と椅子から崩れ落ち、むせび泣く姿を捉えた瞬間、棒取っ手を握っていた手に無意識に力が入る。

 三千万円というお金の重さは当時の俺でも簡単に分かった。だけど、それが人の命よりも重たいということはどれだけ考えても分からなかった。


 一年後。

 俺と弟はお坊さんの経と木魚の音を聞きながら目をつぶり、住まわせてもらっていた母型のおばあちゃんの家の仏壇に手を合した。経の途中、うっすらと目を開け、遺影の中で笑っている母さんの顔を見て、また強く目を閉じた。

 医者との話を盗み聞きした日から数日後、高層ビルの窓清掃をしていた母さんの命綱が切れ落下し、そのまま帰らぬ人となった。そして警察は勤務中の事故死と判断し、その一件は終わりを迎えた。

 しかし俺は、事故死という事実に素直に納得することができなかった。どうしても、あの母のむせび泣く姿が頭から離れなかった。そして数日後、五千万円の保険金が祖母の口座に振り込まれたことを知ったとき、線と線が繋がった気がした。

 そのお金で投与された特効薬で弟の白血病は見事完治し、元気を取り戻した。

 あのとき、ドアの隙間から見えた母さんの姿は、弟が助からないことを悟ったわけではなく、もう俺たちと一緒にいられないことを悟った故の姿だったのかもしれない。だとしたら、金が命に替わり、命が金に替わる。こんな状況はあってはいけないと強く思った。命は何にも代えがたい物であるべきで、誰もが平等に持つものでなければならない。お金がある人は助かり、ない人は死ぬ。こんな不平等な世の中を変えなくちゃいけない。自分自身の手で。

 そう心の中で呟いたとき、合していた手がじんじんと熱くなってくるのが分かった。俺はそのまま手を心臓に近づけ、目をしっかりと見開き、遺影の中の母さんを見た。


 それから、志を胸に必死に勉強を続け、見事T大学薬学部に合格した。

 そして二年生の夏から半年間、アフリカ医療の現状を学ぶ趣旨のインターン活動に参加した。現地では日本で寄付を呼び掛ける写真の風景や生活が、そのままそこにあった。未熟な医療設備や制度医療に劣悪な衛生環境が輪をかけ、子供達の健康は悪化する一方だった。

 生まれ育った環境のせいで十分な医療を受けられない子供達を、いつしか昔の自分の環境に重ね合わせ考えた。そのとき、必ずと言っていいほど、むせび泣く母の姿が目に浮かんだ。

「ナオト」

 夜。焚火を囲んで行われた他大学との交流会で聞き覚えのある声が俺の名前を呼んだ。

「久しぶり」

 そこには卒業式のときから何にも変わっていないヒトミが立っていた。久しぶりというほど年数も経ってないだろう。そう思いながら鼻息を漏らした。

 ヒトミはY大に進学した後エイズに興味を持ち、このインターンに参加したという。

「やっぱりさ、お金がなくて命を落とすって今の現状はどう考えてもおかしいと思うんだよね。だから今ある薬よりも、もっと安く効果的な新薬を作らなきゃって」

 揺れ動く焚火の炎がヒトミの顔を不規則に照らす。しかし、夢を語っている目の奥には灯っている炎は、常にヒトミの瞳を照らし続けた。

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