第9話

第二章 「才能感染」


 お昼を告げるチャイムが鳴ると瀬尾ナオトは実験用のゴム手袋を外し、白衣を脱ぎ研究室を出た。

 まだチャイムが鳴り二分しか経っていないにも拘わらず、食堂では既に各部署の社員が集まり列をなしていた。

 ピンク色のお盆と箸を取り、その最後尾に加わると、知っている強さで後ろから肩をポンと叩かれた。

「おつかれ~っ、私のも取って」

 俺は声に出さず口を「む」と「り」の形にする。

「ケチっ」

 頬を膨らませ、口を尖がらせた顔は刺激されたフグのようで可愛い。

「おー、今日の日替わりアジフライ定食!」

「ヒトミ、好きだったっけ?」

 また、フグの顔に戻る。

「何で四年も一緒にいて覚えてないのよ」

「あー、そうそう。確かそうだったよなぁ」

 恐る恐る横目でヒトミを見ると、案の定、今にも爆発しそうなぐらいヒトミの頬は膨らんでいた。こうなると負けを認めるしかない。思い返せば高校の頃からヒトミはこうだった。


 S高校の特進クラスで出会った俺たちは、志望校が同じT大学ということもあり、校内では常にお互いを意識し、テストでも常にトップを争い合う良いライバルで、校外では日々の不安やストレスを理解し合える唯一の友達でもあった。

「ヒトミはさ、T大のどこ受けるんだっけ?」

「や、く、が、く、ぶ」

 睨みつけるように、俺を見ながらそういった。

「あー、そうそう。確か一緒だったよな」

「ナオトは本当に他人に興味ないよね」

「そんなことない。というか別に付き合っているわけでもないんだし」

 蚊ぐらいの小さな虫だったら死ぬんじゃないかと思うぐらいの殺気を目の奥から感じた。言い訳すればするほど、火に油を注ぐようなものだと思った。

「バカ」

 T大に合格したのは俺だけだった。直近の模試もセンターも、どちらも合格ラインを超えていたのに、ヒトミだけ落ちた。

 いくつも励ましの文章をラインで作った。だけどどれだけ柔らかい言葉を使っても、どれも今のヒトミを傷つけてしまいそうで結局一言も送れなかった。

 最後に会ったのは卒業式だった。その日、友人づてに有名私立大のY大薬学部に合格したことを聞いた。式が終わり、女子達はクラスの皆で卒業アルバムを持ち寄り、寄せ書きを書いていたが、そこにヒトミの姿はなかった。俺は友人と別れの挨拶を交わし教室を出たとき、目の前には卒業アルバムを抱えたヒトミが立っていた。

「馬鹿ナオト」

 声を聞いた瞬間、緩んだ口元からふっと息が漏れた。

「どっちが馬鹿だよ」

 ヒトミは卒業アルバムの最後のページを開け、黒いペンを俺に渡した。

「うるさいっ、黙って書いて」

 ページにはヒトミが入っていた理科研究クラブの生徒の寄せ書きがカラフルな色使いで書かれていた。俺はなるべく目立たないように、隅の方に小さくありきたりな言葉を書いた。

「勝ったと思ってるでしょ」

 「そりゃもちろん」

「絶対私の方が先に出世するんだから」

 頬が膨らみ、いつもより濃いチークが強調される。

「だから絶対、私のこと忘れちゃだめだからね」

 こんな別れ方したら、忘れたくても、忘れられるわけないだろ。

 声にしなかったその言葉を手のひらに乗せ、卒アルを返したついでにつむじをぽんぽんと二度叩き、俺は学校を出た。


 さくっ、と音を立てアジフライを口いっぱいにかじり、ヒトミは幸せそうな表情をした。

「あ、そーいえばさ、十月一日S高の文化祭あるんだけど、一緒にどう?」

「いいけど。ヒトミ、妹か弟いたっけ?」

「実は、理科研究クラブの顧問だった先生が、今年で定年退職しちゃうらしくてさ、会えなくなる前に、会っときたいなって」

 S高を卒業してもう十年近く前になる。俺が世話になった先生は何人ぐらい残っているのだろうかとふと思う。

「どうせだったらカズマ君も誘って、同期三人で行かない?」

 んー、と口いっぱいに籠らせた言葉と一緒にアジフライを咀嚼する。東京本社で採用され今年で四年目。研究職の同期はヒトミとカズマの二人だけだった。

「んーって、数少ない同期なんだから仲良くしなきゃ駄目だよ。文化祭に誘う、今日の宿題ね」

 別に仲が悪いわけではなかった。ただ俺が入社二年目の年で発表したB細胞性白血病に関する論文が社内外で評価されて以来、いつもカズマは俺をライバル視しているように感じた。勝手な思い込みかもしれないけれど。

「そういえば、研究はどんな感じ」

 俺は付け合わせのサラダを口に運びながら、首を横に振った。入社以来、白血病に効果的な新薬の開発に携わっていた。年間一万人弱の人間が命を落とす白血病。しかしその治療薬は世界に一種類しかなく、高額で且つ保険適用外のため、金銭的に治療を断念せざる得ない人達が後を絶たなかった。

 俺はそんな状況を変えたいという信念を持ち研究を続けていた。

 その信念が芽生えたのは、忘れるはずもない、あの日の出来事があったからだ。

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