第8話
部長、象のところに鍵掛けときますね」
「ありがと」
下校時間を知らせるチャイム、いつものやりとり、真っ白なままのキャンバス。
九月に入ってからも毎日が同じ繰り返しで構成されていた。今日も何時間この真っ白のスケッチブックと睨み合っていたのだろう。重さなど意識したこともなかった鉛筆が、日を重ねるたびに鉛のように重くなっていくように感じられる。
描けないことに焦燥感を感じていた時期もあった、だけどその感情を記憶から引き出すことすら面倒になっていた。
気がつけば描き終わっていないのはもう俺だけだった。
椅子に深く腰掛け、天井を見上げる。
「救い……」
息と一緒に口から漏れ、落ちていくその言葉は、床にぶつかっても弾みさえしなかった。
母が死んでから一人になると決まってから、これまで母親との楽しかった記憶を何度も遡り一つずつ愛でるように撫でてきた。そして、それ以外の嫌な記憶は頭の中から追い出そうとし続けた。
ただ、母が倒れた日の出来事だけはどうしても消すことができず、手放すことさえを恐れている自分もいた。何か大切なものも一緒に手放してしまう気がして。
ただそれが何なのかは、あの日からはずっと分からないままだった。
目を閉じ深呼吸をする。窓から入ってきた冷気を纏ったそよ風が頬を掠める。次第に椅子と体の感覚の境がなくなっていく。
大切なもの、大切なもの、大切なもの……。
やがて力を無くした両腕は体の上からすとん、と落ちた。
◇
「あのメガネの子、大丈夫だったの」
マサルはチキンナゲットをマスタードソースにつけて頬張る。
「あぁ、多分大丈夫」
俺は濁すようにそう言って、ポテトをケチャップにつけてかじった。
「何か、こうやって二人で飯食うの久しぶりすぎて照れるな」
五年ぶりの再会だった。平日のファストフード店は、昼食を取るサラリーマンと他校の学生がちらほらいるだけで、とても空いていた。
「いつぶりだろうね」
マサルが変わったのは声や容姿だけじゃなかった。何か子供のときとは違う静かさを体全体に纏っていた。
「今も絵描いてるの?」
「ぼちぼちかな」
そっか、というマサルの目を見て言った返事も多分届いていない。廊下で再会してから、緊張とは違う何かで作られた壁を感じる。空白の五年という歳月がそうさせているのだろうか。
「今日さ、マサルの母さん亡くなってから、五年目だよな」
「覚えてたんだ」
マサルは最後のチキンナゲットを口に入れた。
「今からお線香あげに行ってもいい?」
七回ほど咀嚼した後、氷が溶けて薄くなったコーラでそれを流し込んだ後、マサルは軽く頷いた。
六畳程の部屋に鈴の音が鳴り響く。線香の煙越しに見える遺影の中では、あの頃の笑っているマサルのお母さんがいた。
従妹さんの家の一室を借りて作られたマサルの部屋は、まるであのアパートの部屋を再現したかのように、机、ベッド、姿見鏡だけで必要最低限の物しかなく、ついあの時の記憶の切れ端が頭を過ると、無意識に右ポケットに手を当ててしまった。
「俺さ、実はあの日から医者になろうと思って勉強してんだ。大切な人を亡くす悲しみをもう誰にも味合わせたくないって」
無意識の内に爪が手のひらに食い込む程、両拳に力が入っていた。
「……あの日の事がなくても、医者になろうと思ってた?」
冷たい何かが俺の両拳に当たった気がした。それが冷房の風か言葉かは分からなかった。
「それは、分からない。でも、あの日の出来事があったから俺は……」
「シンはさ、昔から賢くて、スポーツも出来て、やる気さえあれば何にでもなれると思う。でも医者になりたいってさ、そのありあまる可能性の中から自分が何者かになるために、『誰かのため』っていう綺麗で意味のあるように見えるそれが目の前に落ちてたからじゃない?」
また当たった。その刺激で拳が緩みそうになる。だけどここで手を開けると、拳の中にある大切な何かを落としてしまいそうな気がして、更に拳に力を込めた。
「何か目指すときってさ、誰かのためって理由がなきゃ駄目なのかな」
力が入っていく度、拳の震えが増していく。
「だとしても、別にいいだろ。お前だって……」
鼻で息を大きく吸うと、線香の匂いが胸いっぱいに広がった。
「お前だって、母親のために生きてきた人間のくせに!」
「だから言ってるんだよ!」
間髪入れずに出たその言葉には、俺の知らないマサルが凝縮されていた。
「ずっと、誰かのためになんか生きれないよ」
涙交じりの声だった。
「あの日の事はもう忘れてよ。何か自分を正当化するための道具に使われてるみたいでさ、迷惑なんだよ」
迷惑。その言葉が無意識の内に溜まっていた体の力みを一気に吸い取り、何も言い返せなかった俺は置いていたリュックをそっと担ぎ部屋を出た。
開いた両手の掌には爪の後が赤く残っていた。
扉が閉まる音と同時に頬を伝った涙が一滴床に落ちた。
ずっとシンが羨ましかった。お金も、広い家も、おやつのケーキも、最新のゲーム機も、そして家族も。シンが持っているものを全部欲しかった。シンと一緒にいると、その時だけはそれが手に入ったような気がした。
新入生挨拶で壇上に上がったシンを見たとき、息が止まった。それと同時に、嬉しさと悲しさが湧き出てくるのが分かった。
それはまたあの時の様な学生生活が送れるかもしれないという期待感と、またあの劣等感からシンを傷つけてしまうかもしれないという失望感からだった。
そして結局、後者に飲み込まれシンを傷つけた。結局、あの頃から俺は何も変わってない。変わったのは目に見える部分だけで、それ以外は何も成長していない。最愛の人が目の前で倒れていても、何も動かず泣きわめいているだけの、他人任せの泣き虫野郎のままだ。
だからまた、大切な人を失った。
椅子に体の全てを預けるように座る。天井の電球から降り注ぐ光が目尻から流れる涙を光らせる。
もう何も戻らないことも分かっているのに、もっと自分を責めて不幸になれば、いつか救われるのではないかという有害無益な思考は、幼い頃から愛用しているぬいぐるみのように捨てられずにいた。
何かに縋りつきたい一心で机の引き出しを開け、スケッチブックを取り出した。大切なものに慰めてもらおうと表紙に指をかけた。だけど、同時に失ったものの大きさに飲み込まれてしまう気がして指先に力が入らない。
呼吸のリズムがどんどん狂っていくとともに、涙で前が見えなくなっていく。
あぁ。
また、失った。
大切なものを。また。
◇
「マサル君、マサル君」
誰かが、俺の肩を揺らす。
「……オオキ先生?」
「いつから寝てたの、もう二十時だよ」
目をこすりながら半目でパンダ型の時計を見る。目をこすった手は何故か濡れていた。
「あ、ああごめんなさい」
体の奥から熱いものがこみ上げてくる。俺はすぐに机に散らばっていた筆記用具を集め帰り支度をしていると、オオキ先生はキャンバスに目をやった。
「あ、あのこれは」
慌てて、真っ白いキャンバスを机の上に裏返す。
「ほほほ、夢の中で描きたいことは見つかったかな」
オオキ先生は伸びた白い顎鬚を親指と人差し指で触りながらそう言った。
夢の中……。
「あの、コンクールの締め切りまでには絶対に描き終えるので」
「まぁまぁ、そんな焦らんでええわい。本当に描きたいものが見つかるまでのぉ」
そう言い残し、先生はすり足で教室を出た。
帰り道。俺は自転車を漕ぎながら、あの夢の最後を頭の片隅で忘れないよう頭の中で反芻し続けた。
そして家に帰るとすぐ机の引き出しを開け、一冊のスケッチブックを取り出し、一枚ずつ丁寧にめくっていく。
大切なもの……。
あるページでめくっていた指が止まった。
「あった」
その絵を見た瞬間、母が倒れたあの時の記憶が断片的に且つ鮮明に蘇る。
俺はその全てを追い払うように口から強く息を吐き、そのページをスケッチブックから切り離し、持って帰ってきたキャンバスの横に置いた。
そして手に取った肌色の色鉛筆は空気のように軽かった。
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