第7話

『条件って、何なんですか……』

『今年のコンクールで入賞し、高校生初の三年連続入賞を果たすことだ』

 史上初、入賞、三年連続。

『お前には、才能がある』

 薄暗い廊下を進むと、美術室のドアの隙間からは光が漏れていた。登校日の今日は休みなはずなのに。

 そう思いながら、恐る恐るドアを開ける。だけど、どれだけそっとドアを開けようとしても、錆び切ったドアレールからは高い音が鳴ってしまう。

「わ、びっくりした」

 肘までポロシャツ捲り、床に四つん這いになり一人作業をしていたアサミの顔がこちらを向いた。床には六十センチ四方のベニヤ板に鉛筆でイラスト風の豚が描かれている。

「あ、悪い。俺も手伝うよ」

「いいのいいの、部活休みの内にやっちゃおうと思って」

 肩まである髪を後ろで一つ括りにしてる分、いつもは髪で隠れている頬に現れるえくぼがはっきり見える。

「それに私、出展作品はほとんど書き終わってるしさ」

 出展作品。その四文字を聞くだけで頭が痛くなる。

「マサル君は順調?」

 いつから名前で呼ばれるようになったかは覚えていないけれど、何度聞いても同い年に君付けされるのが慣れない。それなら苗字のままで良いのにと思ってしまう。

「ちょっと詰まってる」

 ちょっとではないことは自分自身が一番分かっている。ただこの時期にラフも描けていない非常事態をアサミにだけは知られたくなかった。

 アサミはとにかく優しい。時にはそれを通り越して、お節介とさえ思うこともあった。小柄でおっとりとした外見とは裏腹に、内面は誰よりも大きく、深い人間だった。俺とは違って聞き上手だから、色んな相談の窓口的存在なこともあり、後輩からの信頼も厚い。部長を決める時も、二年連続賞を獲っているからというだけの理由でなったけれど、俯瞰的に物事を見れて、後輩へのフォローができるアサミの方が絶対に適役だ。ただこの時期だけは、そのアサミっぽさが仇となり、アサミ自身の活動に支障をきたしかねない。だから、知られたくない。というよりも、知られてはいけない、と思った。

 さっと立ち上がり、切り口がカラーテープで巻かれたペットボトル筆洗を手に取り水道へ向かう。動く度、アサミのやわらかい匂いと部屋の隅々までしみついた油絵の匂いとが混ざり、不思議な気分になる。

「アサイ先生と何話してたの?」

 キュッ。

「え」

 蛇口を回す音と一緒に喉が締まりそうになる。

「ここの鍵職員室に取りに来る時たまたま見ちゃった。先生と一緒に指導室入っていくの。あ、別に後つけてたわけじゃないからね」

 キュッ。蛇口の閉まる音と同時に振り返えると、アサミの口角にはまたえくぼが出来ていた。

 俺はP美大の特別推薦の話をした。話をしている間、アサミは何度も何度も頷いてくれて、そのえくぼが消えることは一度もなかった。

 アサミは他の女子とは違った。知り合ったのも高校からなのに、どこか懐かしさがあって、その隣には必ず暖かみがあった。アサミに対して、いつから俺はここまで心を開くようになったんだろうと考えることが度々あった。だけどいつも、そんなこと考えた所で何にもならないと悟ってはやめた。

「いいなぁ。P美大、羨ましい」

 色んな色の後が残った使い古されたパレットに赤い絵の具を出す。

「うん。アサミは、看護学校だっけ?」

「そうそう。両親が資格とれってうるさくてさ」

 次いで残り少ない青色の絵の具を、チューブの端を折りながら絞り出す。

「マサル君みたいに絵の才能とかもないし」

 才能。

 窓の外では誰もいないグランドがだんだんと雲に覆われ暗くなっていき、入ってきた生ぬるい風が俺たちを包んだ。

「絵描くのにさ、才能って必要なのかな」

 純粋な気持ちだったし、皮肉と思われるとも分かっていた。だけど、ずっと心の奥で黒く大きくなっていくこいつを、アサミとなら消し去れる気がした。

「芸術の世界ってさ、他人と比べたり、絵の上手さとかで勝負する世界じゃない気がするんだ」

 毛先がぱっくりと割れた筆を筆洗に入れようとしたアサミの手が止まる。

「ただ、何かを表現している人が、ありのままの自分で入れる場所というかさ」

「マサル君は」

 気付けば、アサミの頬からはえくぼがなくなっていた。

「才能があるから、そんなこと言えるんだよ」

 唯一の他人との接点である絵が原因で、アサミとの間に壁が生まれる。

「それだけは絶対に違う」

 だけどこの壁を乗り越えなきゃ、正解になんて一生辿り着けない。自分の絵を描き続けていける自信もない。

「だからって、何が正解かは分からないけど……。だけどそれだけは違うって、言える気がするんだ」

 その正解をアサミとなら見つけられる気がするんだ。

 一番伝えなきゃならない言葉は声にならず、喉元に絡まった後、消えた。

「違う気がするって……。じゃぁ、代わってよ」

「え」

「その推薦枠、私と代わってよ!」

 俯き、前髪で目元が隠れたアサミを見たとき、心がぎゅっと萎み──その感覚に耐えきれなくなった俺はそっと目線を窓の外に向けた。さっきよりも雲に覆われたグラウンドは、今の自分の心を表している様で、視界の外では、アサミのすすり泣く音が聞こえた。

「……ごめん。ちょっと飲み物買ってくるね」

 アサミは涙混じりの声でそう言い、カバンから財布を取り出し、部屋を出た。

 パレット上では、頬を伝い落ちたアサミの涙でパレット上の赤と青の絵の具が滲み合い、透明に近い紫ができていた。

 それをただただじっと見つめていると、突然頬に冷たい感覚を感じ顔を上げる。すると窓から入ってきた横殴りの雨がポロシャツをどんどん突き刺していき──急いで窓際に置いてあったベニヤ板と、アサミのリュックを避難させ、窓を慌てて閉めていった。ふと床を見ると、二つ折りになった紙が床に落ちていた。避難させる時に落ちたのだろう。そう思い俺はその紙を拾いリュックに戻そうとすると、紙の一部が雨に濡れ、そこに書かれた文字が透けて見える。

『進路調査票』

「……」

 大粒の雨が窓に当って潰れる音が体内に渦巻く背徳感を刺激していく。別に他人の進路なんて何の興味もない。だけど、それがアサミのものとなれば……。

『第一志望校  P美術大学』

 え。

 キーッ、とドアレールから鳴る高い音とともに、心拍数が一気に上がる。俺は慌ててその調査票をリュックに戻し、何事もなかったかのように表情を偽った。

「すごい雨降ってきちゃったね」

 少し雨で髪を濡らしたアサミの腕には、紅茶とエナジードリンクが抱えられている。

「さっきは取り乱しちゃってごめんね」

「ありがと」

 心を落ち着かせながら渡されたエナジードリンクを一口飲む。口の中にはいつもの甘ったるい風味が広がる。

「それ、いつも飲んでるよね」

「え」

 偶然じゃなかった。と思った瞬間、アサミは俺の手からそれを奪い一口飲んだ。炭酸が苦手なのか、すっぱいものを食べたときのように顔がくしゃっとなる。

「んーっ、初めて飲んだけど、甘すぎないこれ?」

「男はそういうのが好きなんだよ」

 そっか。とどこか浮かない顔をしてアサミは缶を返す。

「でも何か元気出てきた気がする。やるぞーっ」

 二人しかいない美術室に、アサミの声はよく響いた。

 だけどその言葉の中の空虚さは、どこかエナジードリンクとよく似ていた。

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