第6話
「ゴロウ、ジロウ、早く起きなさい、入学早々遅刻するわよ」
寝室に響いた母さんの声は、この世にあるどんな目覚まし時計よりも音が大きくうるさい。
俺は目をこすりながら布団から出ると、窓からは生暖かい春の日差しが差し込んでいた。四月一日、今日は中学生として新たなスタートを切り、隣で寝ているこいつは今日から小学4年生となる。
「おい、ジロウ早く起きろ。また母さんに怒られるぞ」
「んん……あとちょっと……」
どん、どん、どん、と母さんが一段ずつ大砲が放たれたような音を立てて、階段を上ってくる。その音から、母さんの感情が手に取るように分かる。
「おい、もう知らねえからな」と言い残し部屋を出ようとした瞬間、大砲の球がドアをぶち開け、爆発した。
「早く、起きなさい!」
俺たちは頭にたんこぶをつけながら、朝食のご飯と納豆をいつものように口の中にかきこんだ後、慣れない制服に腕を通し、中学一年生には大きすぎる通学バックを肩から掛け、ジロウと一緒に家を出た。
「またお前のせいで怒られたじゃねえか」
俺はさっきよりも膨らんできたたんこぶを軽く撫でながら言った。
「めんごめんご」とジロウは適当に謝る。
「そういえばお前、クラブ何入るの?」
「サッカー!」溌溂とそう言いながら、ジロウは足元にあった小石を蹴った。
「兄ちゃんは、また野球やんの?」
「だな」
スポーツに関しては昔から好みが違った。サッカーの代表戦と野球中継が被っているときは、いつもリモコンの取り合いになり、結局サッカーになる。
「じゃ、俺こっちだから」とジロウはランドセルを揺らしながら、小学校の方へ向かった。
その後ろ姿と、数か月前までランドセルを背負っていた自分と照らし合わせ、懐かしさを感じたる同時に、全て新品の物を身に纏った今の自分とのギャップから生れた不安が春の陽気に温められて行くのを感じた。
入学式が終わり、クラス分けのため体育館に残った新入生達の名前が一人ずつ呼ばれていく。中学校は隣町の小学校との中間地点にあるため、半数が会ったことのない人たちだ。
「生田五郎君、a組ね」
a組の列の顔ぶれを見ながら列に入る。知らない顔ばかりで心の中で不安が埃のように舞い上がる中、その次の呼ばれた名前を聞いた瞬間、それは一気に吹き飛んだ。
「じゃぁ次、川上浩之君も、a組ね」
教室での座席はあいうえお順の立てに並んだ席順で、丁度俺の左隣りがヒロユキだった。
「ゴリ、ちょっと顔ビビってたよな」
「うるせー」
ヒロユキの前では強がったが、内心ほっとしていた。家も近く、小学校の頃からずっとクラスも一緒だったヒロユキと同じクラスになれて、人見知りな俺からすれば、とても心強く、ありがたかった。
皆が席にき終わると、自己紹介が始まった。二番目の俺は、昨日あらかじめ考えておいた文を頭の中で反芻する。
「はい、じゃぁ、あいうえお順で」
一つ前の席の子がゆっくりと席を立つ。
「明石 勝です。趣味は絵を描くことです」
お世辞にも明るい感じではないが、かといって根暗という訳でもない、不思議な空気を纏った子。それが初めてマサルを見た時の印象だった。そして座ろうとした瞬間、俺の左隣りから声が聞こえた。
「何の絵描くの?」
良くも悪くもヒロユキはこういう空気が読めないところがある。もちろん、今は後者だ。だがそんな唐突な質問に対しても、一切たじろぐ様子もなく、「いろいろ」と吐き捨てるように言いながら椅子に座り、教室からまばらな拍手が鳴った。その後、そのやり取りをただ茫然と眺めていた俺は、自己紹介を噛みまくった。
終礼が終わり、ヒロユキはマサルの元へ駆け寄った。
「絵、見せてよ」
マサルは快くとも、迷惑ともとれない顔をして、通学バックの中からスケッチブックを取り出した。ヒロユキが一枚ずつ見ているのを、俺も後ろから覗く。その中には、芸能人でもアニメのキャラでもない、俺たちには誰だか分からない人物画が鉛筆一本で、シワの一つ一つまで丁寧に描かれていた。
「うめぇ」と俺たちの声が重なる。
「これ、本当に、マサルが描いたの」
マサルは表情一つ変えず頷いた。
「俺たちも描いてよ」
また頷いた。今度は少し口元を緩ませて。
その日、机の上には中学生があまり好まなそうな和菓子が並べられた。新しい友達を連れて来たからか、いつもより種類と数が多い。
「ほんとうめーよなー、ゴリんちの和菓子は」
ヒロユキはいつものように口元にあんこをつけて、おはぎを頬張る。
自宅の一階部分ではひおじいちゃんの代から続く和菓子屋を営んでいて、母さんはいつもそこで作った和菓子をおやつとして持ってきてくれた。
「描けた」
スケッチブックを見ると、おはぎを頬張っているヒロユキが画用紙の中で生きてるかのように描かれていた。ちゃんと口元のあんこまでちゃんと再現さている。
「やっぱ、絵の中でもかっけえんだな俺って」
そう言いながら横目で俺を見るが、気づいてないふりをしながらお茶を啜った。
「三年の卒業ライブの時も描いてもらおっ」
「いいじゃんそれ」
ヒロユキは小学生の時から軽音部に入るといきこんでいて、六年分のお年玉で中学入学前にギターを買っていたことを思い出した。それを物凄く自慢されたことも。
「ゴリも描いてもらえば。三振してるとこ」
こいつは本当に一言多い。
「マサルは美術部入るの?」
「はいらないよ」
「え」
俺とヒロユキは顔を合わせた。
「いや、何で、こんなに上手いのに」
「もういいんだ、絵は」と少し濁しながら、スケッチブックを閉じた。
あれだけ、積極的に話しかけていた、ヒロユキも声を喉に詰まらせる。どこか寂しそうにおはぎをかじるマサルの姿は、自己紹介の時に感じたあの雰囲気と少し似ていて、これ以上踏み込んではいけない気がした。
それからマサルの前で絵の話をすることはほとんどなくなった。それでも別の話で盛り上がったり、席が離れても、学内ではほとんど一緒にいた。各々クラブ活動が始まり、平日に遊べなくなった分、土日のどちらかは俺の家に集まってゲームしたり、映画を見に行ったりした。
そんな関係が続いて二年が経った。この二年間、マサルは本当に美術部には入らなかった。でもバックの中には常にスケッチブックが入っていて、ヒロユキの襟足はどんどん長くなって、俺は一年のときに比べ倍近く体が大きくなって、二人からはゴリというあだ名をつけられて、入学時にあれだけ大きく感じた通学バックも小さくすら感じるようになった。
「ただいまー」
夏。俺はいつものように泥だらけになったユニフォームを身に纏い家に帰ると、玄関で松葉つえをついたジロウが俺を迎えた。
「どうしたんだよその怪我」
「練習でぶつかって、折れちゃった」
「折れちゃったって、いつ治んだよ」
「今年いっぱいまでは安静にだってさ」
てことは、引退試合も。口に含んだその言葉をゆっくり飲み込んだ。母さんの話によると弱小チームながらも四年生の頃からスタメンで、毎週末行われていた対外試合では、毎試合ゴールを決めるほどのストライカーだったらしい。そして今年、キャプテンになり根性のある後輩も入ってきたと意気込んでいた矢先、練習でキーパーとの接触にで骨折したらしい。
それから夜になると、たまにジロウのすすり泣く音で起きることがあった。皆の前ではいつものように振舞うが陰では物凄く悔しがる。ジロウは昔からそうだった。だから下手に慰めるわけにもいかず、俺も黙っていつものように振舞った。それが兄として、俺ができる唯一の役目だと思った。
そしてある日、いつものようにジロウと同じ部屋で寝ているとふと目が覚めた。それはジロウのすすり泣く音でではなく、鼻に入ってくる何か焼けたような匂いからだった。
俺は扉を開けると、突然何かが焦げるような匂いが鼻を刺した。すぐに一階へ続く階段を見下ろすが、目が暗闇になれていないからか、全く先が見えない。俺は謎の恐怖を晴らすように階段のライトをつけ──その瞬間、家じゅうに火災警報器の警報音が鳴り響いた。
その音を聞き、急いで両親は俺の元へ駆けつけ、手を口元に抑えた。先が見えなかったのは暗闇になれてないからではなく、一階から階段を伝って込み上げてくる黒煙のせいだった。三段下から先はもう何も見えない。
「お前はゴロウを連れて先に行ってくれ、俺はジロウを担いで後で行く」
「父さん、俺も手伝うよ」
俺は寝室へ行こうとする父さんの手を掴んだが、勢いよく振りほどかれた。
「駄目だ! お前は先に逃げろ!」
「ゴロウ! 早く!」
その振りほどかれた手を母さんが強く握り、俺を階段の方へ引っ張った。だんだんと視界が黒煙に覆われていく中、握られていない片方の手を一生懸命伸ばし続けた。父さんの背中が見えなくなるまで。
何とか階段を降り母さんは店に続く扉を開けようとドアノブに手を掛ける。が、高温に熱せられたように熱く、握ることさえままならないそれを前に慄然とする。そんな母さんを背に、俺は火事場の底力でドアを蹴飛ばし、無理矢理ドアを開けた。
しかしその瞬間、肌が焼け溶けそうになるほどの熱気が俺たちを襲い──次第に意識が朦朧としていく中で捉えることができたのは、店全体に燃え広がった炎と、遠くの方から微かに聞こえる消防車のサイレンの音だけだった。
目を覚ますと病院のベッドの上にいた。起き上がろうとするも、全身が針に刺されたような痛みが襲いすぐにやめた。首だけを横に傾けると、所々包帯が巻かれた母さんが俺の手を優しく握って座っているのを見て、多分俺の肌もこうなっているのだろうと思った。
知りたいことがたくさんあった。あれから何日経ったのか、店はどうなったのか。
そして父さんとジロウはどこにいるのか。
だが、熱風で焼けた喉のせいでまともに声も出せなかった。だから、そのすべての疑問を視線に乗せ母の目を見続けた。何か一つだけでもいい、一つだけでも、確かなことを聞きたかった。
そんな思いの一部が届いたのか、俺の目を見る母さんの目からは涙が溢れ、焼けただれた頬を伝っていった。
店が全焼し、二人が死んだことを知ったのはそれから一か月後のことだった。
退院後、火災保険でおりた保険金で新しく店を開いた。苦渋の決断だったが、和菓子が大好きだった父さんとジロウのためにも、再開させるべきだという結論になった。
出火の原因となった製造場は全てIHコンロにし、どうしても直火が必要な和菓子は外注することにした。
その他の開店準備などは基本的に母さん一人で行い、そんな忙しそうにしている母を安静期間中の俺は手伝うことすらできず、ただただ唇を噛みしめながら見ることしかできなかった。時折、母さんはそんな俺を見て「気にせんでいいよ。ゴロウのせいじゃないんだから」と優しい言葉をかけてくれたが、逆にその言葉が俺の胸を締め付けていった。
事故から約二か月後。安静期間の最終日に、ヒロユキとマサルが見舞いに来た。
二人とも最初はいつもとかわらない様子だったが、俺のただれが残った肌を見るや否や表情が曇っていくのが分かった。それでも俺を励まそうと、ヒロユキが持ってきてくれたゼリーの盛り合わせを皆で食べながら、俺が休んでいた間の話をしてくれた。話していく内にだんだんと心も軽くなっていき、これまで二人と友達でいられたことに嬉しく思えた。
「ていうか、ゴリ高校どうすんの」
夏休み中ずっと病院生活だったこともあり高校のことは何も考えていなかった。
「俺らS高受けるんだけどさ、ゴリも一緒に受けね?」
公立の中では自宅からそれほど遠くなく、偏差値も高くもなければ低くもない、今から受験勉強を始めても十分に狙える学校で、金銭面的にも私立に行く選択肢がない俺にとっては、必然的な選択に思えた。そしてなにより、また二人と三年間一緒にいたいと心から思っている自分がいた。
ゼリーを食べ終わると、最後に二人は線香を上げ手を合した。
「ゴリ、これ」
マサルがそういって手渡してきたスケッチブックを開くと、その中では父さんとジロウが満面の笑みで笑っていた。
その絵を見た瞬間、これまでの二人との記憶が一気にフラッシュバックした。テストの点数が悪く叱られたこと、スタメンに入って褒められたこと、和菓子を作るのを一緒に手伝ったこと。くだらないことで喧嘩したこと、実はジロウよりも脆かったこと、それを知りながらも兄ちゃんと呼び続けてくれたこと。
気づけば顎から落ちた一滴の涙が画用紙の中のジロウの右目に落ち、滲んでいた。
マサルは俺のぐしゃぐしゃの顔を見ると、「実は……」と神妙な面持ちで過去に母親を亡くした話をしてくれた。
「今のゴリの気持ちが全部分かる訳じゃないけどさ。これを乗り越えれば、きっと強くなれる」
自己紹介の時から感じていたマサルを包む不思議な空気の正体が今ようやく分かった。マサルには強さがある。誰も落ちたことのない深さから這い上がってくることで身に着いた人間的な強さが。
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