第5話

二〇一九年九月一日。

 豚汁と書かれた横に赤いチョークで書かれた花丸は、選挙のときの当選確定の演出に似ていた。

 いくつかの案の中から、最終的に担任のアサイ先生の一声で、三年a組の文化祭の出し物が豚汁に決まった。異論はなかった。というよりも、登校日で授業もない今のこの時間を早く終わらせて、暑さと夏休みの名残惜しさが入り混じった教室から出て早く家に帰り、受験勉強をやりたいというのが皆の本音だった。そしてコンクールの締め切りが近づいていた俺もまた、早く終わることを望んでいた。

「じゃあ、次、買出し誰か行ってくれる人」

「ゴリ行ってよ~」

 だるそうに壁にもたれかかり座っているミカが爪をいじりながらそう言ったとき、教壇に立ち場を仕切っていたゴリが睨みつけるようにミカを見た。丸坊主と部活焼けした大きい体格が相まって、威圧感が凄い。

「俺は他の準備あんだよ、学校決まってるミカが行けよ」

「え~、面倒くさい~」

 ほとんどの決定事項がなすりつけ合いで決まっていく。

「ミカ、行ってやってくれねぇか」

 アサイ先生はそう言いながら腕を組み、ゴリの隣に立った。青い半袖のポロシャツからはみ出た上腕二頭筋が腕を組むことで強調されている。アサイ先生の隣に立つと、あのゴリでさえ小さく見える。

「サリと一緒だったらどうだ」

 体育の授業の時も、アサイ先生は生徒を名前で呼ぶ。そんな他の先生にはない距離間の近さが女子を中心に人気だ。

「サリとだったら、いいけど。てか、今日サリは?」

「今日は体調不良で休みだ」

「どうせ、またあのイケメン彼氏とどっか行ってんだよ~」

 ミカの取り巻きが薄く茶色に染まった髪をいじりながら言う。

「絶対そう~」「いいなぁサリは可愛いからぁ~」

 サリと仲がいい女子生徒の声が教室の所々から発せられる。

「あ、あと、看板誰か描いてくれるやつー」

「アサミしかいないじゃん」

 食い気味で出たミカの言葉はそのまま一直線にアサミに刺さった。

 えっ、と一瞬、俺の一つ後ろの席で小さな声が漏れる。しかしアサミはそれを覆い隠すかのように「分かった」といつもの優しい声でミカの方を向いて言った。

「後一人、できれば男でー」

 行くべきだとは思ってはいた。しかし、できればこれを避けコンクールの作品に集中したいというのが本音だった。だから俺は顔を俯かせ、このまま流れで誰かに決まってしまえと心の中で唱えていた──その矢先、一つ前の席から視線を感じ、ゆっくりと顔を上げると、そこには体をねじりニヤつきながら、こっちを見るヒロユキの姿があった。

「チャンスだぞ」

「何のだよ」

「何のって、文化祭の準備なんて、絶好の告白タイムじゃねぇか」

「しねぇよそんなの」

 周りの視線がどんどん俺たちに集まる。ふと教壇を見るとゴリもヒロユキと同じニヤけ方をしながら、口を開いた。

「あの先生! 何かマサルがやりたいみたいです」

「おお、言ってくれると思ってたぞ。サンキューなマサル」

「いやっ」という声は板書の音に切り刻まれ、アサミの隣に俺の名前が書かれた。

 嵌められた。ヒロユキは既に前を向き、こらえきれない笑いが背中から漏れ出させている。

「よーし、全部決まったな。じゃ次、進路調査票回収するぞー」

 その掛け声と同時に、皆夏休み前に配られた調査票を机の引き出しや、カバンから取り出し、二つ折りにして後ろから前に流していく。

「今日忘れたやつ、絶対に明日までに持ってくるように、紙無くしたやつは今すぐ前に出てこいー」

「やべっ、忘れたー。一応もらっとこ」

 そう呟きながら席を立ったヒロユキを含む数人が列を作る。貰う代償として一人ずつげんこつで殴られていく度、クラスから少し笑いが起きる。俺は頭を押さえながら帰ってきたヒロユキをニヤけながら迎えた。

「さっきの罰当たったな」

「うるせ」

 チャイムが鳴り、その日全ての時間が終わった。荷物をまとめていると、束になった調査票をわきに抱えた先生がこっちに向かってくるのが分かった。それに気づいたヒロユキは殻にこもるように肩を狭める。

「ちょっと放課後、指導室に来てくれ」

 そう俺の目を見て言った。いつもとは違う低い声のトーンに体格も相まって、威圧される。

「はい」

 何のことか、大体想像はついた。俺はすぐに荷物をまとめ、席を立つ。口元の前歯が全て露になったヒロユキの視線を一身に浴びて。

「罰っ」

「うるせ」


「暑っ」

 部屋に入った瞬間に、思わず声が漏れてしまう。溜まり切った熱気を全身で切り裂きながら進み、最奥にある窓を開けた。冷房も扇風機もない八畳ほどの小さな指導室には、一台の長机と二脚のパイプ椅子が不揃いに配置されている。性分柄それがどうしても気になり揃えていると、教室のドアが開いた。

 「おう、悪いな」

 そう言いながら先生は椅子に座り、同じタイミングで俺も座った。

「今年の絵はどんな感じだ」

 今年の絵。それは今年のボジョレーヌーボーの出来を聞くような軽々しさだった。

「まぁまぁです」

「そうか。まぁ俺は、正反対の世界で生きてきた人間だから分からないけどな」

 冗談交じりな言葉とは裏腹に、真剣な表情が崩れはしなかった。

「実は、P美大の推薦枠を条件付きでもう一枠確保できることになった」

「……」 

 美術専攻の生徒のみ受けられる、美大の推薦枠。その中でも一枠だけ、日本有数のP美大への推薦枠がある。

「四月にも話したと思うんですけど、進学する気はないんです」

 四月からずっと、呪文のように唱え、そう自分に言い聞かせてきた。

「本当にないのか」

 いつもより声が遅く小さい分、重く感じる。

「本当は学費のことを気にしてるんじゃないのか」

 その二文字はいつも俺の心を苦しくする。芸術系学校の学費は高い。お金の面で従妹に迷惑はかけたくなかったこともあり、この学校でも同じ中学のゴリとヒロユキと同じ学科に行きたいという理由で美術専攻科を受けなかった。もし減免を受けられたとしても、他の美大よりも遥かに授業料の高いP美大の授業料なんてとても払えない。いつ払い終われるか分からない奨学金を借りて行くぐらいだったら、働きながら独学で絵を描いていく方がいいと考えていた。

「ゴリとヒロユキから聞いたよ。あいつは中学の時から本当に絵が好きだって。もっと学びたくないはずはないって」

「二人が……」

「そうだ。この特別枠は、美術部のオオキ先生がP美大で教諭をしてらっしゃった時のコネを使って、直接入試担当と掛け合って出来た枠だ。授業料も減免じゃない、全額免除だ」

 自分で吐いた言葉の熱に突き動かされるように、パイプ椅子を軋ませながら前のめりになる。

「それだけ皆お前の絵に期待してる。お前には才能がある」

 才能。その言葉が耳に入ってきたとき、何故か母親の顔がフラッシュバックするように脳内に浮かぶ。

「条件って、何なんですか……」

 か細い声が、空気中の熱気と混じり飛んでいく。

「今年のコンクールで入賞し、高校生初の三年連続入賞を果たすことだ」

 そう言いながら立ち上がった先生は、膝上までしか丈がない半パンのポケットから二つ折りになった調査票を取り出し、俺の前にそっと置いた。

「提出は明日までだ」


 指導室を出ると、ヒロユキとゴリが紙パックのジュースを片手にスマホをいじりながら、廊下に座っていた。

「お」

 先に俺に気づいたヒロユキはストローを右奥歯で噛みつぶしながら、右口角を上げる。

「拷問は楽しかったでちゅかー?」

 俺はそっと中指を立て下足場へ向かった。

「今から、ゴリとカラオケ行くんだけどさ、気晴らしにマサルもどーよ」

「ごめん、ちょっと今日パス」

 そう言って靴のかかとを踏みながら、俺は別棟にある美術室に向かった。


「つれねーなー、あいつも」

「まぁ、あいつもあいつなりに色々あんじゃねぇの」

 俺はは赤子の手をひねるように、空になった紙パックのジュースを握りつぶす。

「そう言うお前はどうなのよ、ゴロウちゃん」

「どうって」

 久々に名前を呼ばれむずがゆさを覚えながらも、手の中で真ん中から深く凹んだ紙パックを、下足場の隅にあるゴミ箱へ弧を描くように放り投げた。

「結局、家の仕事継ぐのかってこと」

 それは、こん、と軽い音を立てフチに当たり落ちた。

「あぁ、多分」

「何かお前が和菓子作ってる姿、想像しただけで面白いわ」

 糸が所々ほつれたスニーカーに履き替えた俺はは、落ちた紙パックを拾う。

「お前は良いよ、恵まれてる」

 その静かな言葉は、紙パックと一緒にいつ捨てられたかも分からない埃の積もったのゴミの中へと落ちていく。

「ん、何か言った?」

「なんでもねーよ。やっぱ俺も今日やめとくわ」

 そう言い残し、靴を履き替えながらぶつぶつ言うヒロユキを背に下足場を出る。

 見上げた空は、分厚い雲に太陽が覆い隠されていた。

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