第4話
強い雨がコンクリートを叩く。その音を掻き消すかのように、木魚を叩く音と経が式場に響く。
葬式は町の小さな公民館で行われ、一般席に参列していたのは、二人の知り合いらしき四十代ぐらい女性と、俺と母さんだけだった。
足のしびれを堪えながら、正座を崩し静かに立ち、母の後ろについていく。母がお焼香を上げている姿を見て、一連の動作を覚える。
「美奈子さん、心筋梗塞だったらしいわよぉ」
「ほんと怖いわねぇ。美奈子さんちの子、まだあんなに小さいのにねぇ」
母がお焼香を終えると、二人のひそひそ話を背に意味も分からず、ただただ母の真似をした。
棺桶の中で眠っているマサルのお母さんの顔はいつもより化粧が濃く、どこか別人のようだったが、紫色に染まった頬の打撲の跡までは化粧で隠せていなかった。ただ、少し口角が上がっているように見える表情はいつもの見慣れた顔で、他人の俺にも優しく、我が子のように接してくれたこれまでの記憶が断片的に蘇るとともに涙がこみ上げてきそうになるが、そんな権利は俺にないと心の中で呟き、それをぐっと押し戻す。
目をつぶり一礼し、親族席に座っている二人に体を向け、さらに一礼する。お辞儀し返してくれたのは、マサルの隣に座っている従妹らしい女性だけだった。式が始まってからマサルは、ずっと俯き、俺の分まで泣き続けていた。
「マサル、お友達、来てくれてるよ」
そんな俺を気遣ってくれた言葉もまるで聞こえていないようで、結局一度もマサルと目が合わなかった。
母と俺は返礼品を受け取り、用意してもらっていたタクシーに乗り込み式場を後にした。
少しすると窓の外からは、あの時と同じコンビニの看板が見えた。あの時、俺がもっと早く助けを呼んでいれば助かっていたかもしれない。あれからはそんなことばかり考えていた。
実は従妹さんが気を使って言葉をかけてくれたとき、俺は咄嗟に泣いているマサルから目を逸らした。マサルだって、俺と顔を合わせたくなくて、わざと顔を上げなかったんだとしたら。その理由はやっぱり、俺にあるのではないか。
赤信号でタクシーがゆっくりと止まり、外にはまた同じコンビニの看板が、俺を嘲笑うかのように煌々と灯りを照らす。
それを振り払うように俯き、目を閉じると、あの時のマサルの声が再生された。
「シン、助けて……」
助けられなかった。声と体を震わせて、助けを求められるまで、立つことさえできなかった。
あの日からいつも自分の中の涙のバケツは溢れそうなのに、それを責任感という名の蓋で抑え続けていた。このバケツをひっくり返せば、外で降っている雨の量より泣ける気がした。だけど、そうしてしまえば、この悔しさまで一緒に流れてしまうのが怖かった。また、同じ理由で大切な人を失ってしまう気がした。
だから、俺は絶対に泣かない。
心臓に刻み込むように呟き、窓の外を一点に見つめ、上着のポケットに入っている数珠を強く、強く、握りしめた。
バケツの中の涙は、ぐつぐつと音を立て沸騰していた。
◇
それからマサルは隣町の親戚の家に預けられることになり、中学校も自ずと別々になった。
俺は親に中学受験を勧められ、県内屈指の中高一貫進学校へ入学することになった。元々受験なんてする気はなかったけど、いざ合格すると、両親は喜んでくれたし、どうせマサルのいない学校生活なら、どこに行っても一緒だと思った。中学に入っても授業が理解できないことは一度もなかったし、成績も常にトップで、何不自由ない学校生活を送っていた。そのおかげで、俺は二年のクラス分けでは、成績上位一五名のクラスに振り分けられた。
しかしそこでは、日本一偏差値が高いT大学を受験するためのカリキュラムが組まれ、他のクラスの倍以上の課題を課された。どれだけ集中し、効率よく進めても、毎日寝るまでの時間を全て課題に充てざるを得なくなった。
そうしていつものように課題に追われていたある夜、俺は側面が黒くなった右手をふと止め、勉強机の本棚を端から端まで埋め尽くしている「医学」と名のついた本を、ぼっと見つめて、ため息を吐く。思えば毎日同じ時間に、同じ椅子の角度で、同じため息の量を吐いている気がする。
結局そんな生活が中三の夏頃まで続いた。高校でも自分の時間が課題で埋め尽くされていく姿を想像すると嫌気がさし、俺は編入することを決め、自宅から一番近いS高校の特進クラスを受けた。
初めその思いを伝えた時は案の定両親から反対されたが、医学の道に進みたいということ、そのために今の内から基礎を学んでおきたいということ、そしてS高から必ず日本一偏差値が高いT大学医学部に入るという約束をし、何とか説得することができた。
特進クラスといえど、T大入学者を多数輩出する名門校ではなく、多少不安はあったが、過去に数名輩出している実績もあり、何より、個人を尊重する校風が自分にあっていると思った。
そしてS高には特進クラス以外にも、普通科と美術専攻科があった。
二〇一七年四月一日。
入学式ではシワひとつないブレザーを身に纏い、体育館の舞台の上で新入生代表として挨拶をした。クラスごとに綺麗に整列している新入生達からは、これからの希望と、よそよそしさが溢れ出ていた。
その中の一番左端。八割が膝下までスカートが伸びている女子生徒と、残りの二割は前髪が鼻先まで伸びた男子で構成されているクラスが目に入ると、他のクラスとは違った空気から、すぐに美術専攻科クラスだと分かった。
俺は小指程の淡い期待を抱き、舞台を下りながら、二割の男子生徒の顔を一人ずつ見ていく。そして一段ずつ階段を下る度に、『もしかして』が『まさか』に変わっていき、気づけば両足は体育館の床の上にあった。
『やっぱり』
俺は心の中でそう呟きながら、浅くため息を吐き、特進クラスの列に戻った。
あの日からマサルとは一切取っておらず、小学校の友人達の間でも、誰も行方を知る者はいなかった。もしかしたら、県内にすらいないのかもしれないのに、頭の片隅ではいつもマサルの面影を探していた。
その後式は一時間程で閉式し、クラスごとに体育館を出て教室に戻った。教室では三十代ぐらいの女性の担任教師がこれから受験日に向けてのカリキュラムの説明をと、一人ずつ自己紹介をし、午前中で終わった。
まだ説明を受けている普通科の教室を横目に下足場へ向う。靴を取り出し、履き替えていると、さっき聞いた声が俺を呼んだ。
「これからこいつと昼飯行くんだけどさ、一緒に行かね?」
そう言って肩と組んだ二人組が話しかけてきた。さっきの自己紹介で声が教室の隅から隅まで響き渡って、先生までも苦笑いされていた奴だ。その印象が強すぎて、名前が全く思い出せない。また肩を組まれている眼鏡をかけた気の弱そうなもう一方の奴は少し困った顔をしながらこっちを見ている。
「あぁ、いいけど」
「じゃぁ、決まり~。で、今気づいたんだけど、自転車の鍵教室に忘れちゃって。ちょっと待っててくんない」
「分かった」
スリッパの裏を廊下に打ちつけ、ぱかぱかと音を鳴らせながら教室に戻って行く。
「ハシモト君、元気だよね」
確かそんな名前だった、と思い出しながら頷いた。
メガネ君との間に流れ始めた気まずい空気から手持ち無沙汰になり、下駄箱にもたれながらさっき配られたカリキュラムが載ったプリントを呼んでいるフリをした。すぐして、説明を終えた普通科の生徒が下足場へ集まってきた。
初日にも関わらず、何年も前から友達だったかのような空気を纏った女子のグループの話声で下足場は一気に賑やかになる。一瞬視線を感じ、プリントから目を逸らすと、女子グループの一人と目が合った。
「ねぇねぇ、あの子、今日挨拶してた子だよね」
「確か一番入試の点数良かった人が挨拶すんでしょ?」
「え、かっこよくて、頭良いってやばくな~い」
抑え気味で話しているつもりの声も、普通に話しているボリュームとあまり変わらない。こんな女子のありがたい声も、いつからか何も感じなくなった。女子グループが去り、後続に続いていた生徒達も続々と帰って行くと下足場はまた静かになった。
「遅いね、ハシモト君」
確かに、教室に鍵を取りに行くだけにしては遅い。
「何かあったのかな」
プリントを見ながら、他人事のようにそう言ったそのとき、後続の中の最後の一人の足音がこちらに近づいてくるのが分かった。だが、騒がしくなくハシモトの足音じゃないと分かったので、そのまま気にも止めずに、プリントを読んでいるフリをし続けていると、やがてその足音は俺たちの前で止まった。
どこかの女子生徒が声を掛けてきたのかと思い、俺はプリントを顔に近づける。
「シン」
男子生徒の声だった。知らない声のはずなのに、どこか懐かしさを感じる声。
「久しぶり」
プリントから顔面を剥がすように顔を上げると、小学生の頃の面影を残したまま、成長したマサルが立っていた。
そしてさっきまでの違和感の正体が声変わりだと気づいたとき、違和感の中に詰まっていた温かみを心が感じるのに一秒もかからなかった。
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