第12話

「ねぇシン、行こっ」

 黒い仕切りで区切られた教室の隅の控室で、サリは俺の手を握りそう言った。

「まだ俺の持ち場時間残ってるから……」

 控室と言っても教室の机四つ分ぐらいの空間で、仕切りの壁には顔が廃れたお化けの被り物やカツラが掛けられており、机には鏡と血のりペイントと書いてあるチューブが転がっている。

「代わりに僕やっとくから、いいよ」

 何故か鼻から血を流しているタケモトがメガネの真ん中をくいっと上げそう言った。

「ほらっ、お友達がそう言ってくれてるんだからっ」

 いつも語尾が丸く女子らしいサリの声は、この教室の雰囲気と釣り合っていない。

「本当にいいの?」

「この雨でもう人も来ないだろうし、大丈夫だよ」

「ありがとう」

 俺は釘が貫通しているように見える被り物を外し、壁に掛けた。

「それ、血のりだよな」

「いや、さっきぶつけた」


 互いの指の間に指を入れ手を繋ぎながら、一つ上の階にある三年a組の教室へ向かう。大雨の影響もあり客もほとんどおらずほとんどが校内の学生で、出し物で買った食べ物片手に様々な場所で談笑していた。

「食材もね私が買って来たんだよ。シンが好きなジャガイモもちゃんと入れてあるからねっ」

 サリと付き合ったのは今年の四月頃だった。年に一回、特進クラスの恒例行事として自らの知識をアウトプットし記憶の定着を促すために、希望する普通科のクラス生に対して補習授業を行う。サリとはそこで出会った。

 最初は意識していなかったが補習授業が終わった後も度々俺の元へ来るようになり、次第に意識するようになった俺は、五月頃に告白した。

「マサルは今日来てる?」

「たぶん来てたと思う~」

 手を繋いでいない方の人差し指を下唇に当て、俺の目を見てニコッと笑う。たぶん、という言葉に引っかかりそうになるが、この顔を見るとどうでもよくなってしまい、サリの手をぎゅっと握り直し階段を上った。



 ゴリは包丁を握り直し、もう一度ジャガイモに刃を入れる。教壇の前に置かれている長机は野菜を切る場所と、豚汁を提供する場所で半分に分かれている。

「違うってば、何回言ったら分かるのよ」

 ミカの叱責を浴び続けたゴリは深いため息をつき、ついに匙を投げた。

「ああ、もうわけ分かんねぇよ」

 まな板にはどれも人が食べるに大きすぎる歪な形をしたジャガイモが転がっている。大雨のせいで校外からの客は全く来ず、具材が余ったので最後にクラス全員で豚汁を分け合うことになった。

「何で言われた通りできないかなぁ、ほんとに不器用」

「そういうお前はできんのかよ」

「当り前じゃないこれくらい」

 ミカがポロシャツの袖を捲り、包丁を握る。

「あいつらってさ」と一連の流れを教室の端から一緒に見ていたヒロユキが声を出した。

「なんだかんだ、お似合いだよな」

「だなぁ」

 俺は机に頬杖をつきながら、適当にそう答えた。

「で、お前は告ったのかよ」

「告ってないよ」

 ゴリとミカが言い争っている隣でそれを静観している数人の女子に視線を移す。

「何だよ、つまんねえなぁ」

 その中にいるチェック柄の三角巾と赤いエプロンを巻いたアサミは、とても家庭的な女性に見えた。

 あの日、看板の色を塗り終えたのは十九時頃だった。そして最後まで進路調査票のことを聞くことはなかった。何故アサミは俺に嘘をついたのだろう。そんな疑問がぐるぐると頭の中で渦巻き、あの日以降アサミとはあまり話さなくなった。

 入り口のドアがガラッと音を立てる。

「みーかー!」

「サリー!」

 別れたのはつい十五分程前なのに、いつもこの二人は二年ぶりぐらいに再会したような反応をする。

「おじゃましまーす」という声と共にシンが一緒に入ってきた瞬間、クラスの女子達の黄色い歓声が教室を包んだ。

「なーにがキャーだよ」

 ヒロユキのぼやきはその歓声にかき消されていく。

「私も具材きるの手伝うよ~」

 そう言ってサリはパーマがかかった茶色い髪を手首に着けていたシュシュで括り具材を切り始めた。

 その隣でシンは何かを探すように教室全体を見回す。

 もし今、目が合ったらどんな表情をしよう、そう考え始めたときには既に俺たちの目は互いを捉え合っていた。

 時間が、息が、一瞬だけ止まる。

 相変わらずシンの目力は強く、キリッとした二重で、でも瞳の中はあの日と変わらない弱さが垣間見えた。

「シン、シンってば」

 サリの呼び声でシンの目は日が沈むように伏せていき、やがて視線が外れた。

「ごぼう硬くて切れない……」

 包丁貸して。そう言ってシンは六本ある内の五本を慣れた手つきで斜めに切っていく。サリとミカは手を叩きながら、そのシンの横顔をじっと見つめる。

「やっぱシン君すごい。誰かさんとは違って~」

 あからさまに声のトーンを変え嫌味な視線をゴリに送る。

「俺だってこれぐらい……」

 切られたゴボウはすぐそばにある湯気が立った銀色の大鍋に入れられた。

「最後の一本、一緒に切ってみる?」

「できるかなぁ」とサリがまな板に置かれた包丁を取り、後ろからシンが手を添えるように教える。

「ここで、ぐっと力入れれば」

ザクッ。と音を立てて切られたゴボウはちょうどいい太さに切られた。

「今の感じでやってみ」

 シンがゆっくりとサリから離れる。

 コツを掴んだリサは軽快なリズムで次々とゴボウを切っていく。包丁が置かれた先のまな板に並んだゴボウはどれも綺麗な形だった。

「シン、できたーっ」

 包丁を置き、いつもの笑顔で隣にいるシンの方を向いたとき、内側から風を含みふわりと膨らんだスカートが包丁の柄の部分に引っ掛かり──回転した包丁は刃を下にしてリサの足元めがけ落ちる。

「──!」

 綺麗な赤い滴が宙を舞う。

 マサルはシンと目が合った時の、あの時間が止まるような感覚にまた落ちた。目に見えるものは全て止まり、周りの音も、自分の鼓動の音さえ聞こえない無音な世界。  

 ゴリとミカのあんぐりと口が開いた顔、本能的に叫んだシンの声に驚き尻餅をつき涙が今にも落ちそうなサリの顔、それらを見るクラスメイト達。

 そして落ちた包丁を咄嗟に弾き、血が噴き出しているシンの右手首。

 その中の一滴の赤い滴は大鍋の中に落ち──同時に止まった時間は氷が溶けていくかのように再び動き出だした。 

「キャーッ!」

 ミカの叫び声が教室に響き渡り、教室は騒然となる。

「おいおいおい、やべぇって」

 あれだけやっかんでいたヒロユキもすぐに立ち上がり、駆け寄ろうとすると勢いよく教室の扉が開いた。

「どうした⁉」

 悲鳴を聞き駆け付けたアサイ先生が教壇を見る。血が飛び散り所々赤く染まったまな板とごぼう、黒板、大鍋。そして、包丁。

「おい、何があった」

「大丈夫です……」

 出血箇所を抑えている左手からも血が漏れ出し、滴り落ちている。

「大丈夫じゃねえだろ。いいから保健室行くぞ」

 そう言ってシンを軽々と横抱きし、教室を出ると、恐怖で座り込んでいたサリも立ち上がり泣きながら後を追った。

 静まり返る教室の中で、絶えず大鍋が沸騰する音だけが俺たちを不気味に包む。

「あのぉ~」

 声がする方にクラス全員が目を向ける。その女性のふわっとした声は、教室の重苦しい空気に潰されそうになる。

「まだ、豚汁やってますか」

 その女性は教室の扉から顔だけ出しそう聞いた。

 ミカは慌てて床に落ちた包丁を拾い、背中の後ろに隠す。

「あ、はい。いいですよ」

「よかった~。ほら早く、まだやってるって」

 その女性は廊下に向かって教室からは見えない誰かに話しかけた。

「無理矢理作ってもらってるんじゃねぇだろなぁ」

 男性の声が聞こえる。その間にヒロユキは長机の上に会った布巾で血の付いた箇所をサッと拭き、ゴリはまな板を隠し、豚汁を紙コップに入れた。

「ありがと~、はい、ナオト」

「おう、さんきゅ」

 夫婦だろうか、大人びた男女二人組が紙コップを受け取ると、啜りながら帰って行く。そして入れ違いになるような形でアサイ先生が戻ってきた。

「他に怪我したやつはいないか」

「先生、シン君は」

「保健室で治療してもらってる。幸い傷も深くなく自然治癒だけで治るみたいだ。とりあえず、サリにはシン君と一緒には帰ってもらった」

「よかった」

 ミカの安堵の声が漏れる。

「こりゃ家でイチャイチャ三昧だな」

 ヒロユキが俺にしか聞こえない声でぼやく。

「結構余ったな。早く皆で食べよう。洗い場ももうすぐ使えなくなるぞ」

 アサイ先生の一声もあり、ゴリは素早く全員分を取り分けていき、サリを除いたクラス二十九人全員で残りの豚汁を食べた。全部業務用スーパーで購入した食材だったが、味はそんなに悪くなかった。むしろ、たくさん野菜を入れたおかげでうま味が溶けているのか、美味しく感じた。

「おいゴリ、俺のコップ具入ってないぞ」

「当り前だろ、なーんにもしねぇで後ろでニヤニヤしてただけなんだからよ」

 ヒロユキの苦虫を噛み潰したような顔を見るのは何回目だろう。

「じゃぁ、何でマサルは具入ってんだよ」

「マサルは看板描いてくれたからな」

 ヒロユキは俺とゴリを睨みつけ、豚汁を一気飲みした。

 外を見ると雨は上がり、雲の隙間から夕日が差し込んでいる。

 シンと目があったあのとき、どう反応すればよかったのか。シンは今、俺のことをどう思っているのだろうか。

 豚汁を啜っていると、口の中にシンが切ったゴボウが入ってきた。

 俺はそれを奥歯でぐっと噛みしめた。

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