第26話
サリが死んでから、このクラスの重力だけが誰かに操作されているかのように重く、ぴりついた空気が流れていた。誰もがサリが死んだときの変色した赤色のマークと、日に日にその色に近づいていく自らのマークの色を重ね合わせ、いつか自分もサリのようにもがき苦しみ死んでしまうかもしれないという恐怖を、有名大学合格という夢で覆い被し見ないようにしていた。
その恐怖を誰よりも感じているのは他でもないアサミだった。サリが死んだあの日以降、アサミは学校を休みがちになり、登校し姿を見せる度、痩せ細っていくのが目に見えて分かった。そんなアサミを見る度、いつまでたってもマークの正体が分からない焦燥感と、ただ刑事さんの連絡を待つことしかできない自分の無力感に押しつぶされそうになった。
「アサミ、ちょっといい」
マークが現れてから普通が普通ではなくなった。それはシンの才能に感染していない自分にも言えることだった。クラスの皆の前で、昼休みに女子を屋上に連れ出すなんて、絶対にしなかったと思う。
「最近、体の具合どう?」
雲の隙間から降り注ぐ太陽の光が屋上にいる俺たちを照らす。
「前よりは、ちょっと落ち着いてきたかも……」
ずっと普通ではなくなることは悪いことだと思っていた。だけど、普通じゃないことをすることで、普通というものは案外脆く、自分という小さな世界で決めただけの、ちっぽけなものでしかないと気づけた。
俺みたいな人間は、普通じゃないことを普通にしなければ、前に進めない。
「よかった」
ただあのとき、あいつ等が最初にアサミにしたことは普通か普通じゃないとかではかれるものではない。人の努力を踏みにじる。それは完全な悪だ。
『テストで点数取れるのが、夢も持たずに大金を稼ぐことが、そんなに偉いことなのかよ! 狂ってるよ、全員!』
今だってあのときと同じ語気で口にできる。サミが傷つけられている姿を見て、怒りの沸点が下がり思わず声を上げた。あのときの怒りの矛先は完全に皆に向いていた。だが、矛先を向けるべき方向は本当にそこであっているのだろうかと、あの言葉を思い出す度考えるようになった。
お金をたくさん稼いで、世間で良いとされている物を買い、良いサービスに身を捧げる。それが普通とされている世の中で、皆そんな生活を営むことを目標に生きていくため勉強し、良い大学に入り、給与の高い会社に入る。それを求めない人間は普通ではない。
でもやっぱり、そんな普通は狂ってる。そんな普通がなければ、シンの才能をもっと違う方向に使う選択肢だって生まれるはずなのに。若さという無限の可能性を、自ら狭めたりしないはずなのに。そして普通というのは脆いはずなのに、何故かこの普通だけは、あまりにも多くの普通が世界から集まって組み合わさっているせいで、とても大きく見えてしまう。
そう考えている内に本当の怒りの矛先は、皆をそうさせる普通を作り上げた世の中に向けるべきではないかと考えるようになった。そして、どれだけその普通をクラスの皆に、世間に翳されても、この『大きいだけの脆さ』を壊して、普通じゃないとされているものの中にも、大切な物があると気づいて欲しかった。
今でも鮮明に覚えている。あれは物心つく前、まだ世間一般的な構成の家族として成り立っていたとき。輪郭が赤色で、鼻は緑で、目が黄色くて、とにかく滅茶苦茶な父の肖像画をクレヨンで書いたことがあった。だが、父の頭の中は酒とギャンブルでいっぱいで、俺を育てるということに一切関心を持っていなかった。
『なんだこれ、気持ち悪い』
当時、その言葉の意味を全て理解できる年齢ではなかった。だが、父の汚物を見る表情からは言葉が持つ意味以上の物を感じ取れた。それが父と交わした最後の会話になった。その日以降、全く家に帰って来なくなり、数日後、川の下流で遺体となり発見された。遺体からは大量のアルコールが検出され、酒に酔い足を踏み外し転落したものと推定された。
それから父の表情が脳裏に焼き付いてしまい『人』を描くことを本能的に恐れるようになり、身の回りにある物だけを描写するようになった。それが俺の『普通』になって、もう一生人を描くことはないと思っていた。だからシンに描き方を教えて欲しいと頼まれたとき、思わず躊躇ってしまった。だけど唯一の友達のシンを失いたくないという気持ちから、シンが帰った後、何度も何度も人を描こうとした。が、ペンが紙に触れる度、父のあの表情が浮かび、描くことができなかった。
そんな俺の姿を見た母さんが、『お母さん描いて』と初めて俺に絵を描くことを頼んだ。すると、さっきまでの自分が嘘だったかのようにペンが進み、無我夢中で描いた絵を見せたとき、母はにっこりと笑いながらスケッチブックを目に焼き付けるように見続けてくれた。
素直に嬉しかった。心がじんと温かくなって、これまでよりも更に深く、母さんと繋がれた気がして、気づけば父のあの表情は脳内からきれいさっぱり消え去っていた。絵を描いて、感謝されることの意味を改めて感じ、自分の中で絵を描くことが『救い』になった瞬間だった。
そして美術室で居眠りをした日に見たあの夢をきっかけに、数年ぶりに引き出しから取り出したスケッチブックに描かれた母の肖像画を見て思い出し、コンクールの出展作品として、当時の記憶を愛でるようにして描いた。だが描いている途中、記憶の中に大きな黒い穴が開いていることに気づいた。シンに人の描き方を教えたあの日、ドアの向こうから聞こえた、何かがぶつかって鳴った重く鈍い音。あの音から先の記憶が海馬からごっそりと抜け落ちていて、その次に思い出せるのは母さんの葬式の記憶だった。
何故思い出せないのか、いくら考えても分かるはずもなく、次第に過去の記憶を、都合のいいように作り変えているのではないかという疑念が頭を過る度、自責の念が心を侵食していくのが分かった。それでも何とか描き終え文化祭の展示に間に合ったが、結局、作品紹介の欄を自分の言葉で埋めることはできなかった。
アサミを守るために放ったあの言葉の後だってそうだ。それを信じ切るために必要な最後の一ピースが見つからなったから、俺の言葉は誰の耳にも入らなかった。
この穴を埋めない限り、皆に大切な何かを気づかせることなんて……。
「マサル君……。私、まだ死にたくない……」
そう言ってアサミは縋るように俺の手を握った。太陽はまた雲に隠れ、冷気を含んだ風が俺たちの手にぶつかった。
地上からは、談笑しながら五限目の体育のためにグラウンドに出てくる生徒たちの声や、音楽室からは自主練に励む吹奏楽部生の楽器の音が聞こえる度、自分のいる屋上と地上に天と地ほどの生命力の差を感じ、本当の地獄は天にあるのかもしれないと思った。
脳の端から端までを往復し慰めの言葉を探す。だけど、もうどの言葉も言ったことあるものばかりで──俺は無言のままそっと体を抱き寄せ、背中を摩った。
「……マサル君」
アサミと体を密着させていると鼓動が伝わってくる。次第にアサミと俺の鼓動は同じリズムを刻むようになり、それからはコンマ一秒もずれることなく一緒に動き続け──やがて一つの命を共有している感覚になった。
本当に共有できれば、もっとアサミの苦しさが分かって、もっと寄り添って助けられて、俺も一緒に死ねるのに。そんな叶うはずもない願いを奥歯でぐっと噛みしめたとき、アサミの鼓動が徐々に遅れていくのが分かった。
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