第30話
「よし、できた」
黒板消しの隣に白いチョークが置かれたとき、俺は何百回と声に出してきた名前を口にした。
「やっぱすげぇな、マサルは」
「シン……」
教室の扉に持たれかかる俺を見たマサルは少しだけ戸惑いの表情を浮かべながら、手に着いた白い粉をズボンで拭き落とした。
「卒業式は?」
「まだ俺のクラスまで時間ありそうだし。それより、本当に練習してて遅れたのか?」
「いや、刑事さんの最後の喝がちょっと長くなってさ」
「そっか……」と俺は口元を緩めながら、教室に入り、一番近くにあった机に浅く腰を掛けた。
「全員の言葉、見届けなくてよかったの?」
「うん。大丈夫。きっと皆助かるよ」
無責任ともとれるその言葉も、今のマサルが口にすれば無条件に信用できた。
「マサルが皆に覚悟を持たせたんだろ。刑事さんもそう言ってた」
つま先を絡めるようにして足を組み、今日のために新調したブラウンのローファーに視線を落とす。昨夜、刑事さんから電話が来た。三年a組の生徒にはウイルスの発症元は俺だとは話していないということ。そして万が一、三年a組の全員が助からなかった場合、TAGのことは世間に公表せざるを得ないが、発症元は何がっても絶対に公表しないと。
「だったらいいんだけど」
表情を変えず控えめに照れる癖は、いつまでたっても昔のままだ。マサルは教壇から下り、窓際にある自分の机に置いてあった紙袋を手に取ると、ふと外を眺めた。まだ三月にもなっていないのに、春に似た陽気が日差しに乗って、教室に降り注ぐ。俺はそのノスタルジックな香りに包まれたマサルの後ろ姿を見て、小学校の頃の教室の端で一人黙々とスケッチブックに鉛筆を走らせるマサルを思い出す。
「文化祭の絵、すごくよかった」
絵を見たとき、マサルが初めて見せてくれた肖像画と一緒に、あの日の記憶が落雷に打たれたように蘇った。喜怒哀楽の喜と哀の両極端を一瞬に味わい、覚悟が決まった日。一日たりともあの日のことを忘れたことはなかった。あの絵はそんな当時の記憶を映し出す鏡のようだった。俺は与えられていた休憩時間のことも忘れ、ひたすら絵の前に立ち尽くし、鏡の中の記憶に没頭した。
太陽のように熱くなっていく心と、頬を流れる涙に気づくまで。
「ありがと」
マサルは振り向くわけでもなく、淡泊な口調で返事をし外を眺め続ける。何があるわけでもないグランドをただひたすら。
ほどなくして沈黙が俺たちを包んだ。俺はそれを払うように絡めたつま先を解き、会場に戻ろうと腰を上げたとき、マサルが徐に口を開いた。
「俺さ、母さんを亡くしてから、もう一生、誰かのためになんて生きていけない、生きちゃいけないって思ってた」
独り言のようなマサルの言葉は、何色でもなかった。
「だからシンが線香あげに来てくれたあの日。お前も母さんのために生きてた人間だろって言ったとき、自分でも制御できない怒りがいきなり込み上げてきて、それが言葉になった」
窓から入って来た風を含んだカーテンがドレスの裾のように舞い、一瞬だけマサルを隠す。
「だけどシンが帰った後、なんであんなこと言ったんだろうって、ひたすら後悔してる自分がいたんだ。でも、もうその時には気づいてた。本当は誰かのために生きていけないと思ってる今の自分を、認めたくないんだって」
カーテンが戻り、再び姿を見せたマサルは俺の方を向いていた。
「天国にいる母さんのためだって生きていいんだって、そう、気づけたんだ」
小学生のとき、初めてマサルに話しかけた俺を褒めてやりたい。
「だからあのときは、あんなこと言ってごめん。シンは間違ってなかった。あと」
こんなに素直で。
「一番大切なことを思い出させてくれて、ありがとう」
人を想える。
「やっぱり俺、ずっと絵を描いていたいんだ。描いてる時間が、一番、自分を生きてるって実感できる。そう感じられるのも、母さんのために生きてるって、そう思えるから」
最高な人間と友達になったのだから。
「マサルらしいな」
もう形容できる言葉は、これしかなかった。
遠くから誰かが廊下を走る足音が聞こえてくる。それはマサルが未来に進む足音にも聞こえた。
これからどれだけ辛いことがあっても、それが何十年続いても、きっとマサルはいつまでも絵を描き続けている。マサルの目を見てそう確信した。
マサルは窓から離れ、扉へ向かい歩き始める。
歩く度、紙袋に入っているP美大の入学案内が擦れ音を立てる。
卒業式から抜け出したアサミとゴリは、白のチョークだけで黒板一面に描かれたクラス全員の似顔絵を見て思わず息を止めた。
「なぁ、マサル」
俺を横切り、教室を出ようとしたマサルの足が止まる。
「俺ら、間違ってないよな」
両親より、先生より、あの刑事さんより、この世の何よりも輝いて見えたマサルに、縋るように言葉を投げた。
「正解なんてないよ。あるのはただ」
覚悟だけだ。
才能感染 @syu___
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