第25話

第四章 才能終息


 一月二十七日。

 今日もスマホのアラームが鳴る前に、完全に冴え切った目で画面をタップする。こうしてベッドにただ横たわっていると、ここ数週間で起きた様々なことが幾度となく頭の中でリピートされていく。それでもベッドから出る気になれないのは寒さのせいではなく、脳内に溜まり溜まって処理できなくなった考え事の数々を抱えながら一日を始めなければならないという、憂鬱のせいだろう。

 五日前に一時間程考えてヒトミ送ったラインの長文メッセージも、いつからか既読がついているかどうかさえ確認しなくなった。


 一週間程前。その日は研究が長引き、気づけば研究室に残っていたのは俺だけだった。そこにヒトミが訪れ、エイズの論文を一番初めに見せてくれた。

 そもそもエイズとは、HIV(ヒト免疫不全ウイルス)が体内に入り、免疫能の低下により指標疾患にある合併症のいずれかを発症した状態のことを指す。そしてHIVには自己の遺伝情報をDNAの形で、感染した細胞のDNAの中に潜在させることができるという特徴があり、HIVは完全に体内から消し去ることは難しいとされてきたが、ヒトミの論文はその常識を大きく覆す内容であった。もしこの薬が完成すれば、毎年百万人近いエイズによる死者数をゼロにするだけではなく、新たに感染する人間も大幅に減らすことができるノーベル賞をとってもおかしくない内容だった。

「おめでとう、ヒトミ」

 読み終わった後、たくさんの称賛の言葉が頭に浮かんだが、どの言葉を使っても、このヒトミの功績を称えきれない気がした。だけど同期として、一研究者として、ヒトミをとても誇らしく思う気持ちを言葉にしたいという衝動は抑えられず、脳内の言葉の引き出しを手当たり次第に開け、やっとみつけた五文字を丁寧に形にした。

「ありがとう。でもね、これ公開しないつもりなの」

 俺の右手にある論文に視線を落とし、ぼーっと見つめながらいつもよりワントーン低い声でそう言った。

「……何言ってんだよ、酒でも飲んでんのか」

 鼻で笑いながら論文を机に置き、白衣を脱いだ。

「冗談言ってないで早く研究室のリーダーか上層部の人間に出してこいよ」

「私ね、この研究で一つ気づいたことがあるの」

 ドアに全体重を預けるようにもたれかかるヒトミの姿はどこか不気味で、哀愁を纏っていた。

「完治させちゃいけない病気があるんだって」

 どこに、どんな傷やシミがついているかさえ覚えている見慣れた研究室の風景が、隅を取られたオセロのようにゆっくりと確実に見慣れないものに変わっていく。

「エイズがこれまで完治しない病気だったのは、私たち製薬をする側のためじゃないかって。多くの人々が病気でいてくれるから、治療薬が売れて、私たちが生活できてるんだって」

「何を言ってんだよ、そんなわけないだろ!」

 どこかで感じた焦りを含んだ苛立ちが、体の至る所から噴き出てくる。ヒトミはドアから体を剥がすようにして、帰り支度をしている俺の目の前に立つ。

「ほんとにそう言える? 世の中から全ての病気が無くなったら、私たちの存在意義はなくなるんだよ」

 勢いのある剣幕でそう訴えかけてくる目の前の人間は、もう俺の知っているヒトミではなかった。

「だとしても、目の前で苦しんでいる患者を見捨てれるわけないだろ!その人を助けるために全力を尽くして研究を重ねて、薬を作ることが俺たちの役目なんだよ!」

 苛立ちの正体を探るため、頭の片隅で記憶の中の暗闇を進んで行くと、奥の方で微かに光が漏れているのが見えた。

「違う、気づいてよ、ナオト……。私たちは、いたちごっこをさせられてるだけなんだって」

 その光の中を片目で覗くと、あのときの母と医者の会話が見えた。

『その薬はいくらするんですか』

『一回の投与で、約三千万円です』

 椅子から崩れ落ち、むせび泣く母がゆっくりと振り返り俺の目を見る。あのときは見えなかったぐしゃぐしゃの泣き顔が視界の全てを埋め尽くす。そして母の発した言葉は、俺の脳内に直接語りかけるように響いた。

『お金があれば』

 命より重たい物はない。母が自分の命を金に換え弟を助けたあのときから、そんなのはただの造言だということに気づいた。

 だからヒトミの言動全てが理解出来ないわけではなかった。だけどそう思い続けて生きていくことはとても苦しかったし、その風潮を変え、お金と命のバランスを釣り合わせなければならないと強く思ったからこそこの職に就いたし、ヒトミもこれまで病気で苦しむ数多くの患者を近くで見てきて、その人たちを助けたいという信念を持ってこれまでやってきた同士だと思っていた。

 しかし、それらを根っこから否定するような言葉が何故こんなにもすらすらと生まれるのか、この論文の何がヒトミをそうさせ、金と命のバランスを狂わせたのか、全く分からなかった。

「今日は早く家帰って休め。疲れてるんだよ、きっと」

 鉄塊がついたように重くなった足を引きずるようにして、ヒトミを横切り研究室を出た。

 数日後、ヒトミが提出した論文の噂は瞬く間に会社全体に広まった。改心してくれたことに対して感謝の気持ちを伝えるため、ヒトミの研究室を訪ねたが、論文を提出した直後に体調不良を訴え会社を休み続けていたため、ずっと会えずにいた。

 

 ショート寸前の脳に鞭を打つかのようにインスタントコーヒーを一口飲み、ソファに深く腰掛けた。

 結局、昨日の通夜にもヒトミは姿を現さなかった。上村の突然の死に、社内では一昨日に心停止で亡くなったという会社からの公表に加え様々な噂が後を絶たなかった。距離はそれほど近くなかったとはいえ、数少ない同期のよしみとしてくるものがあり、それはきっと、これからも互いに切磋琢磨し合う良い関係でい続けると心のどこかで思っていたからだった。

 ニュースから流れる星座占いも二日連続最下位で、あいにくラッキーカラーの付いた物も持っていない。身の回りの歯車が何かによって少しずつ何かによって狂わされていくのを認めたくないがあまり、朝のルーティンだけはいつも通りの演じることにしていた。そうしていれば、感情の起伏が抑えられ、コーヒーさえ喉を通らないことにも驚かなくなるからだ。そして俺は今日も、マグカップに八割程残ったコーヒーを全てシンクに捨て、研究室に向かった。


 ビルのエントランスを抜け、いつものように受付を通り過ぎようとしたとき、受付嬢に呼び止められた。

「所長が研究室に行く前に、来客室に寄ってくれと」

「所長が……?」

 長く綺麗にカールしたまつげを揺らしながら受付嬢は、こくっ、と頷いた。就職活動の最終面接ぶりにエレベーターの最上階のボタンを押し、来客室へ向かう。所長は全ての研究を統括し、会社の経営を司る社長と肩を並べるトップの役職だ。そんな人が俺に何の用が……。

 最上階に着き床一面に敷かれたレッドカーペットを見たとき、あのときの面接の緊張が蘇ると、当時を再現するかのように音を立てないようにそっと歩く。そして金色に輝くドアプレートに書かれた来客室という三文字を確認し、ノックした後金色のドアノブを引いた。

「失礼します」

 部屋に入るとガラスのテーブルを挟み、所長と中年男性がソファに腰かけ、何かを話していた。その周りには、これまでの様々な功績を称えられ贈られた金色に輝くトロフィーが所狭しと並んでいる。

「おお、来た来た。じゃ、私はこの辺で」

 部屋に入るや否や所長はソファから立ち、俺の右肩をぽんぽんと二回叩いてすぐに部屋から出て行ってしまった。

「ご協力ありがとうございました」

 男性のお辞儀に釣られるように、俺も「お疲れ様です」と頭を下げた。

「瀬尾ナオト君だね」

 男性はソファから立ち上がり、部屋の外の見渡し所長が消えたことを確認すると、すぐにドアを閉めた。

「そうですけど、あなたは?」

「失礼。こういうものだ」とドラマさながらのセリフとともに、金色に輝く警察手帳をナオトに見せた。

「まさか君らが上村カズマと同じ会社で研究しているとはな。まぁそれはそれとして、単刀直入に聞こう。今、首元にもあるxノマークは何色だ?」

「……何のことですか?」

 意味が分からなかった。

「だから首元の……。ちょっと待て、もしかして君も……」

 刑事さんは俺の胸倉を掴むようにコートの下に着ていたセーターの首元をぐっと下げた。そして首元が露になると同時に両眉が額にぐっと寄った。

「ちょっと、何なんですかいきなり……」

「宇田ヒトミは今どこにいる?」

 所長と話していたときの朗らかな表情が一変し、声に気迫がこもる。

「えっ、多分今日も体調不良で休んでいると思いますけど」

 乱れたセーターの首元を整え、一歩後ろに下がり距離を取る。

「今日も?」

「えぇ。ここ数週間はずっと体調不良で」

「連絡は取れているのか?」

 首を横に振ると、刑事の表情はさらに険しくなった。

「あの、ちゃんと説明してくれませんか。警察が俺に何の用があるんですか」

 ラッキーカラーの金色に囲まれているのに、部屋に張り詰めた空気にそんな要素は微塵も含まれていない。

「そうしたいところだが、生憎そんな時間はない。とにかく今すぐ彼女の家に案内してくれ」

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