第27話

男子寮から数百メートル離れた所にある女子寮のアサミの部屋からは、まるでその一室だけ廃墟になったのかのような虚無感が漂っていた。

「おいヒトミ! いるなら返事してくれっ!」

 いくらインターホンを押し、ドアを叩き呼び掛けても応答がなく、一筋の望みをかけ下に押したドアノブも鍵がかかっていて一切動かない。

「どいてみろ、俺がやる」

 ゴドウはピンセットのようなものを内ポケットから二本取り出し、両方を使って鍵穴に刺し込んだ。

「こんなことまでやるんですね」

「いや、これはガキの頃に覚えた。……よし、ドアノブを思いっきり押してくれ」

 ナオトは何も聞き返す間もなく、言われるがままドアノブを押すと、ガチャ、と鍵穴の内部が鈍い音を発し、壊れたようにドアノブが軽くなった。

 すぐさま部屋に入ると、様々な悪臭が混ざった匂いが全身に纏わりつく。俺たちは腕で鼻を抑えながら、何日も洗っていない食器や、ハエが飛び回っている食べ残しが溜まったシンクを横切り、リビングに繋がるドアの前に立つと、すりガラス越しに人が横たわっているのが見えた。

「……ヒトミ」 

 最悪のパターンが頭を過り、反射的にドアノブを掴む。そして覚悟を決め勢いよくドアを開けると、部屋の奥に配置されていたベッドで死んだように横たわるヒトミが目に入った。俺は空き巣が入ったかのように散乱していた衣服を踏みながらすぐさま駆け寄る。仕事終わりにそのままベッドに入ったのだろうか、何日も前のワイシャツの襟元はシワだらけで、白い枕カバーにはファンデーションがついている。

「おい、ヒトミ! 起きろ!」

 両肩を揺らし、必死に呼び掛けるが返事がない。

「そんな……」

 熱くなった目頭をベッドの淵に押し付け項垂れたとき、カーテンの隙間漏れた日の光が俺を射す。

「ナオト……」

 その光に照らされなければ聞こえなかっただろうヒトミの声は、一緒に照らされていた宙に舞う埃のように軽く、弱かった。

「ナオト……、この前は、ごめんね……」

 ヒトミの手はとても冷たく、俺の手の熱を段々と奪っていく。

「あぁ、改心してくれて嬉しかった。そんなことより体調は大丈夫か」

 ヒトミは起き上がりベッドに腰かけると、乱れきった髪がついた頭をゆっくり立てに動かした。

「感動の再会の途中に申し訳ないが、首元を見せてくれないか」

 ヒトミはゴドウの言葉を避けるように、顔を俯ける。

「どうしたんだヒトミ? 早く見せて、俺たちは何も関係ないって証明しよう」

 角を取り丸くした俺の言葉も撥ねつけるような表情を見せ、沈黙が部屋を包む。

「早く見せるんだ!」

 ゴドウは重い足音を立てヒトミに駆け寄り、ワイシャツのボタンに手を掛ける。

「いやっ!」と悲鳴に近いヒトミの声も、掠れて全く響かない。

「ちょっと待ってください!」

 俺は刑事の手を掴み、精一杯の力を使ってヒトミから離した。

「俺がやりますから……」

 そう言って、ワイシャツのボタンをゆっくりと二つ外し、ヒトミの首元が露になったとき、思わず唾を飲みこんだ。

「なんだよこれ」

 日の光が真っ赤に染まったxのマークを不気味に照らす。

「論文の件は所長から聞いた。S高の文化祭で豚汁を飲んだあの日から、論文を急に論文を書けるようになったりしなかったか」

 ヒトミはずっと俯いたままで、表情が見えない。こんなときにいつも見せる涙さえ、枯れて出ていない。

「どうゆうことだよヒトミ、何なんだよこのマークは!」

「ナオト、ごめん。ずっと黙ってて……」

 刑事は流れるようにこれまでの経緯を話した。その話を聞きながら、ヒトミの冷たい手を握り、こんな姿になるまで俺に助けを求めなかったヒトミの心境をひたすら考えたが、何も分からなかった……。

「俺はその答えをこれまでずっと追い続けてきた。そしてやっと見つかるかもしれない」

 ゴドウは慣れない手つきでスマホに何かを打ち、内ポケットにしまった。

「役者は全員揃った。答え合わせの時間だ」



 放課後、俺は受験前のT大入試のための補習授業を欠席し、隔離されたかのように静かな家庭科準備室にいた。

<君の推理を信じる。放課後、家庭科準備室に来てくれ>

 そう刑事さんからラインが来たのはついさっきのことだった。

 俺の推理……。

 兄さんのお通夜があったあの日、『一人だけ感染していない生徒がいる』その言葉を聞いたとき、自然にマサルの顔が浮かんできた。そして何故マサルだけが感染していないかも、マサルがこれまでずっと大切に持っているものを考えれば、分かる気がした。

 ただ、もしこれが本当にTAGの唯一のワクチンになるのなら、あのクラスの何人の命が助かり、何人が死ぬだろうか。そして俺は前例のないテロ行為者として、どれだけの罪を背負うのだろうか。あの刑事さんの頭の中に全員が助かるプランは存在するのだろうか。不安が泉のごとく湧いてくる度、聞こえるはずのない死んだサリや兄さんの声が耳元で囁くように聞こえた。

『シン、何でもっと早く気づいてくれなかったの……。苦しいよ、シン……』

『全部、全部、お前のせいだ……。シン……』

 見えない何かが首を纏い、息が詰まる。苦しい。

『早くこっちに来て、シン……』

 サリ……。

『お前も死んで、俺が感じてきた苦しみを背負い続けろっ……』

 兄さん……。

 どこかから、二人分の足音が聞こえてくる。その音はまるで俺を迎えに来るかのように段々と近づいてくる。

 そっと瞼が落ちる。死んで償えるのなら……。

 ガラッ。扉を開く音が、俺の体を持ち上げようとした二人の腕を切った。瞼を開けると、マサルと名前の知らない女子が、肩で息をしている俺を心配そうに見つめていた。

「シン……」

 俺は深く呼吸し、息を落ち着かせながらマサルを見た。

「マサル、何でここに」

「昼過ぎに、刑事さんからここに来るようにって」

 二人はシンから一番離れた場所にある丸椅子に座る。

「xのマークのこと、全部刑事さんから聞いた。マサルが兄さんに相談していたことも全部」

「うん、そうだよ。あれから連絡来なかったけど、きっと今から刑事さんと一緒に来て……」

「兄さんは死んだ」

 マサルの視線が俺を刺す。だけど俺は、目を合わせられなかった。

 ガラガラッ。

 勢いよく開いた扉の音にマサルは振り返り、刑事さんを両目で捉えるや否や、すぐに駆け寄った。

「よし、全員揃っ」

「刑事さんどういうことですか、シンの兄さんが死んだって……」

「あぁ。伝えずにいて申し訳なかった」

 そう言って刑事さんは、今にも膝から崩れ落ちそうな俺の両肩を掴んだ。

「だが、もうすぐ全て分かりそうなんだ。何故君と、上村君だけが当事者でありながらこのウイルスにかかっていなのかが。それが分かれば、偶然豚汁を飲んでしまったここにいる二人も、クラスの皆も救えるかもしれないんだ」

「俺たちになんでマークがないのか、それは俺たちがこのやっかいなウイルスの宿主だからだ」

「宿主……」

「マサルだったら分かるはずだ。何故俺たちが、このウイルスの宿主なのかが」

 シンと俺との共通点……。

 全員の熱視線が俺の脳に集まる。その期待に応えようと膨大なシンとの思い出を掘り返そうとしたとき、急激に脳が熱くなり視界がぼやけてくる。

 次第に立っていることさえままならなくなり、体が床に沈んでいくような感覚に陥り──その刹那、誰かが俺の名前を呼んだ。その声は記憶の中の母さんの声と重なって、ピンと張られた弦を弾いたときの音のように体中に響いた。


「マサル……」


 すぅっ。と吸った息は冷たく、家庭科準備室にいたはずの俺はいつしか何も見えなない真っ暗闇の中にいた。

「かぁ……、かぁさ……」

 どこからか、誰かの声が聞こえる。

「かぁさん……、かぁさん……」

 雨の匂いがする。声が段々と近づいてくるにつれ、明瞭になっていく。

「母さん、母さん……」

 俺の声だ。

 そう分かったとき、上から落ちてきた一滴の滴が右頬に落ちた。

 ゆっくりと上を向くと、そこには小学生の俺が倒れている母さんの肩を揺すっている映像が、巨大な水溜まりの水面に波打ちながら映っているのが見えた。

 これって……。

『母さん、母さん、どうしたの』

 小さな手で懸命に肩を揺らす俺。

『ねぇってば、母さん……』

 首をゆっくりと横に振りながら、項垂れる俺。

『シン、助けて……』

 絞られた喉の隙間から、辛うじて出た声で助けを乞う俺。

 シンに人の描き方を教えたあの日の記憶だ……。そう気づいたとき、遥か先で灯った光により、暗闇が円形にかたどられ、果てしなく続いていると思っていた暗闇に限りが現れた。

 ドアの向こうから聞こえた、何かがぶつかって鳴った重く鈍い音。あの音から先の記憶に開いた大きな黒い穴の正体……。

『母さん、いやだよ……』

 映像の中で俺の右頬を伝って流れた涙が、水溜まりを通じて俺の右頬に落ちた。

『母さんがいなくなったら、どうしたらいいか分からないよ……』

 もう呼吸をしているのかさえ分からないほど、映像の中の母さんは静かで。

『まだ母さんの絵も、いっぱい描きたいよ……』

 暗闇を飲み込むように、光がじわじわと迫ってくる。

『死なないで、母さん……』

「母さん……」


『マサル……』

 母さんの細い指が、右頬に流れていた俺の涙を拭った。


『やりたいこと、やりなさい』


『母さん!』「母さん!」


 空気をも切り裂きそうな大声で叫んだ瞬間、巨大な水溜まりが落下し、俺の全身を飲み込んだ。水の中は冷たくも、息ができないわけでもなく、ただひたすら終わりのない底に向かって、体が沈んでいくだけだった。

 離れ行く水面には、足から血を流しずぶ濡れになっているシンと、知らない女性が茫然と玄関に立ち尽くし、俺と母さんを見ている映像が映る。そしてシンは土足のまま家に上がり俺に手を差し伸べ──映像を飛び出すようにして水面を突っ切った手が、水中に沈みゆく俺の前に現れる。

『前を向こう』

 水中にシンの声が響き渡る。

 俺は口角から漏れた泡と一緒に、包み込むようにその手を握った。

 そして光が俺もろとも全ての暗闇を飲み込んだとき、全てを思い出した。

 シンと俺との共通点。

「……覚悟」

 シンが深く頷く。

「マサル、俺たちには覚悟がある。マサルのお母さんが倒れたとき、マサルの悲しむ姿を見て、医者になる覚悟ができた。このウイルスは覚悟のある人間の中に宿るんだ」

 そして刑事さんはナオトの右肩に手を置いた。

「そして君に中にもあるはずだ。揺るぎない『覚悟』が」

「覚悟……」

 その二文字とあの記憶を結びつけるのに、時間は必要なかった。

 一周忌のあの日、俺は遺影の中の母さんに誓った。命は誰もが平等に持たなければならないもので、お金で命の重さが決まるこんな不平等な世の中を自分自身の手で変えなくてはならないと。

「確かに、ありまます」

 息継ぎすることなく、続けて口を開いた。

「自分が覚悟を持っているかは、覚悟を持った人間にしか分からない。明石君。僕は文化祭で君の絵を見たとき、とても惹きつけられた。それもきっと、君と近いものを感じたからだと思う」

 目の前の少年は、俺の言葉と一緒に唾を飲む。

「そしてウイルス同士は干渉しない。だから、マサルもそこにいるお兄さんも、豚汁を飲んで感染しなかったんだ」

 シンの明快な解説で徐々に謎が解けていく。

「上村カズマの実験ノートから、血液感染の他に粘膜感染することが分かった。そして感染してから百五十日で死に至ることも。遠藤アサミは豚汁を飲む前に君の絵の才能に感染した。だから上村シンの才能には感染せず、皆と同じようにテストの点数も取れなかった。二人とも頑張って思い出してくれ、絶対に感染したきっかけがあったはずだ」

 ゴドウの呼びかけで、二人は必死に記憶を掘り返す。アサミが死ぬかもしれない。また大切な人を亡くすかもしれない……。俺は莫大な恐怖感に駆り立てながら必死に脳みそを回転させる。

「九月一日……」

 唐突にぽつりと呟いたアサミの言葉の言葉を聞き逃さなかったゴドウは、内ポケットから手帳を取り出し、九月一日から百五十日後の日付を指でなぞるように数えていく。

「マサル君のエナジードリンク……」

 エナジードリンク。

 あの日、少し髪を濡らしたアサミが抱えて持っていたエナジードリンク。

 『それ、いつも飲んでるよね』

 あの言葉で心が温かくなったことと、顔をくしゃっとさせて甘すぎると文句を言っていたこと、そんなアサミをいつもとは違う気持ちで見ていたこと……。様々な記憶が断片的に脳に流れてくる。

 あの時の間接キスで……。

「じゃぁ、あの日から俺のウイルスに」

「……ごめん、マサル君。私、ずっと嘘ついてた……」

 言葉と共に震えていたアサミの膝は、俺の吐息のような「え」という声で崩壊し、膝から崩れ落ちるようにしてその場に座り込んだ。

「あの日から急に繊細なタッチで絵が描けるようになった。この技術があれば、明日のP美大の実技入試も合格できるって思ってた……」

 すっ、鼻から吸った空気をお腹に入れ、小さく息継ぎをする。

「だけどこんなこと言ったら、またマサル君に怒られるって分かってたから言えなかった。ほんとは私だって自分の絵を描いてたいし、看護学校なんて行きたくない。だけど、マサル君もずっと私の絵見てきたから分かるでしょ。美術専攻の受験も失敗してるし、コンクールにも引っかかったことなんて一度もない。もうこれ以上、自分の絵を描いて否定されるのが怖いの。だから、嘘でも他の人の力でもなんでも借りて絵を描いて、P美大に入って絵の勉強ができれば、きっと自分の絵も上手くなれると思うって、ずっとそう信じてるの」

 窓から差し込んだ光が照らしたアサミの黒目はいつもより濃かく、俺は伏し目がちなその目を捉え続けた。

「あの日、アサミが俺に言ったことずっと覚えてる。俺には才能があるから、才能は関係ないって言えるんだよって言葉。それと、それに上手に返事できなかったことも」

 誰の視線も感じなかった、こんなに近くにいた刑事さんの視線さえも。

「あのときは自信がなかった。自分の中でもなんでそれは違うって言えるのかが、はっきりと分からなかったから」

 ただ感じるのは、俺の背中から伝わってくる母さんの温かみだった。

「だけど、その答えがやっと見つかった。絵に技術は関係ない、どれだけ気持ちを込めて描けるかなんだ。そうして描いた絵は絶対に誰かの心に残る。それが一人だけだとしても人数なんか関係ない。その信念を持って描き続けることに意味があるんだ。そしてそれは、他人の真似事ではなくて、ちゃんと自分の想いのままに絵を描くことでしか表現できないんだ」

 あのとき足りていなかったものは、もう全て今の自分の中にあった。

「九月一日から百五十日後は、明日の一月二十八日だ。遠藤アサミ、君は今日、覚悟を持たなければならない」

 ゴドウの声が重く二人にのしかかる。

「アサミなら持てるはずだ。自分の絵を描き続けるという覚悟を」

「覚悟……」

 私はそっと自分の胸元に掌を置き、今にも止まりそうな鼓動を掌で感じた。

 いつからか、忘れていた。誰かと比べることでしか、自分の絵を好きになれなくなっていた。上手くなればなるほど両親に褒められて、上手に描けることだけが自分の中の正義で、他の誰かのために絵なんて描いたことなかった。その積み重ねで出来上がってしまった今の私に、芸術を通して何かを表現する資格なんてないのかもしれない。本当は受験に失敗したあの時から、もう絵を描くことはないと思っていた。だけど、マサル君と出会って、近づきたくて、認めてもらいたくて、好きになって欲しくて。気づけば、ずっと絵を描いていた。両親にも頭を下げて、P美大の入試を受けるチャンスも貰った。絵が上手になることで、いつか必ず好きになってもらえると思っていたから。

 ずっと小さい頃から誰かのために描くって目的は合っていた。だけどいつからか、その本質を見失っていた。

「私、描く……」

 掌に鼓動が伝わってこない。

「上手く描けなくても……」

 どれだけ気持ちを込めれるかは分からない。だけど、そうして描かないとマサル君の心に残らないのなら……。

「下手でも、不格好でも、もう誰の真似もしない。自分の手で、自分が想うように、描きたいように描く」

 今はマサル君のことを想って。

「アサミなら、大丈夫」

 私の手を握ったマサル君の手の熱は、私の覚悟を覆った。


 私は二人の真ん中にある繋がれた手を見つめながら、ナオトの片手を握った。

「私ね、アフリカのインターンで医療が行き届いていない現状を見たとき、自分の手で変えなきゃいけないって、確かにそう思った。だけど、今思えばあれはただの決意だった。このウイルスの力でエイズの論文を書き終えたとき、このまま全部の病気を完治させる方法を見つけちゃったら、自分の存在意義がなくなるんじゃないかって怖くなったの。そのとき、自分には薬を作って人を助けたいっていう覚悟がないんだって悟って、だけどそれを認めたくなくて、自分の中でお金の話に無理矢理すり替えて、気づいてないふりをしたの」

 気づけば握っていたはずの私の手は、ナオトの大きな温かい手に覆われていた。

「でも、その人を助けるために全力を尽くすのが俺たちの役目だ、って。寝込んでいる間、ずっとナオトのあの言葉が耳に残ってた」

 言葉を重ねる度、ナオトは親指の腹で私の手の甲を撫ぜながら、優しく頷く。

「覚悟がないことを、能力のせいにして逃げてたんだ、私」

 本音をぶつける度、心を縛っていた強がりが解けていく。

「今、あの子たちが確実に一歩前に踏み出した姿を見て情けなくなっちゃった。あんなに若い子が覚悟を決めて前に進んでるのに、私はこれからもずっと逃げ続けるのかって」

 ナオトの温かみを感じながらそっと手を引いた。そして、私を縛り付けるもの全てがなくなったとき、生まれたての赤ん坊のような心と瞳で最後の本音を口にした。

「だから、決めた。私、もう一度アフリカに行く。この便利で厄介な能力を捨てるためにも、覚悟がなかった自分を素直に認めて、また他の病気で苦しんでる人たちのために全力を尽くすんだっていう決意を、覚悟に昇華させるために」

「待ってる」

 俺は頷くでもなく、寄り添うわけでもなく、ただ一言、そう口にした。ヒトミなら、きっとそれを持ち帰ってくると確信した。

 何故なら、アフリカの夜に見せた炎が目の奥にうっすらと灯っていたから。

「刑事さん、ありがとうございます。僕たちはこれで」

「こちらも感謝するよ。君がいなかったら、きっと彼女はあの部屋で一人野垂死んでた。それで、車の中でした話なんだが……」

「もちろん、やらせてください。カズマの残した研究結果を参考にして、新たな感染者に向けてワクチンを開発してみせます」

「恩に着るよ」

「じゃ、俺もこれで」

 そう感傷に浸っている四人を横目に上村シンが部屋を出ると、俺はすぐに後を追った。

「待ってくれ。本当に君には助けてもらってばかりだ。感謝するよ」

「いえ、元は僕がまいた種なんで。もっと早く気づいていればあの二人も……」

 彼は背を向けたまま首を横に振り、悔しさを滲ませながら言葉を吐いた。

「あぁ、確かに悔やまれる。だが君のおかげで出口は見えた。後は」

「この出口からクラスの皆を出せるかどうか、ですよね」

 滾るような声が冷たい廊下に響いた。振り返ると、初めて会ったときと同じ目をした明石マサルの眼光が俺の眉間を貫いた。

「刑事さん。その役目、俺にやらせてください」

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