第2話

「マサルは鉛筆握ったら、ほんと静かやね」

 愛おしそうにそう呟く顔とは対照的に機敏に家事をこなす母を見て、これが母さんのためになっているということを、理屈ではなく感覚的に理解できた。

 だから弱虫で、絵を描いている時以外ほとんど泣いていた僕は、とにかく鉛筆を握り、絵を描いた。それもアニメのキャラや自動車など子供ながらの絵ではなく、部屋にある食器や扉など、とにかく目に見えるもを模写し続けた。

 そしてその絵を見せる度、そんな子供っぽくない絵でも母は家事の手を止めて、広角をスッと上げて褒めてくれた。

「本当に絵描くのが好きなんだね」

 別にどちらでもなかった。ただ、僕の絵を見てないときの母さんの顔はもっと好きじゃなかった。

 小学校に入り色んなことを知った。当たり前と言われていることが当たり前にできないこと。それが悪いことだということ。人付き合いがあまり得意ではないこと。皆には父親という人がいて、僕にはいないということ。色んな『当たり前』を教えてくれる学校というシステムに馴染めずに三年生になったとき、いつものように絵を描いていた僕を物珍しそうに見てくる、物珍しい奴がいた。

「何描いてるの」

 上村シン。五十メートル走も、テストの点数も、こいつのより凄い奴はいない。

「黒板消すやつ」

 ぼそっとした喋り方が絵の不気味さに輪をかけた。

「絵、うまいよなぁ」

 そう言って横から近づけてくる顔から逃げるように、そっと背を向けた。

「他の絵も見せてよ」

「家にある」と自由帳の中の黒板消しに言葉を吐いた。

「じゃぁ放課後、行くわ」

 捨て台詞のようにシンはそう言って、教室を飛び出して何処かへ行ってしまった。

 僕は止まった左手の鉛筆を凝視しながら、背後から聞こえてきた予想外だったその言葉を理解するため、会話を一から頭の中で遡った後、またゆっくりと筆を動かし始めた。

 放課後、下足場には三年三組の下駄箱に寄り添いながら理科の教科書を読むシンがいた。細く華奢なスタイルに寒色で統一された服装。それにマッチした深緑のランドセルとは対照的に、不釣合いな学校指定の黄色帽子が悪目立ちしている。

 僕はシンを横目になるべく気づかれないように気配を消し、下駄箱から靴をとり、かかとを踏みながら逃げるようにして下足場を出た。しかし、それに気づいたシンはすぐに駆け寄り僕の右隣りに並んだ。

「いつもどっちから帰るの、東、西」

 シンに話しかけられている僕を、女子が羨ましそうに見ている。僕はその視線からも逃げるように早足で東門に向かった。

「なんだ一緒だな、でも俺お菓子買って帰るときは西門から」

「ほんとに来るの、家」

 足を止めそう聞いた。急停止に気づかなかったシンは僕の二歩前で止まり、振り向きながら口角を上げ首を縦に振った。

 家に着き、僕の「ただいま」を掻き消すほどの「お邪魔します」の声が玄関に響き渡ると、母さんは急いで玄関まで出迎えに来た。

 そしてシンを見たときの母さんの顔は、いつも僕の絵を見ているときと同じ顔で、きっとこれが母さんにとって嬉しいことなんだと初めて気づいた。

 いつもの食卓に母さん以外の人が座り、いつもの麦茶が注がれたコップを母さん以外の人が手に取る。細かないつもが変わっただけで、僕は他人の家にいる錯覚に陥りそうになった。

「絵、好きなの」

 麦茶を一口飲んだ後、僕はそう聞いた。

「別に、でもマサルの絵は好きかな」

 多分、気を使ってくれている。黒の鉛筆一色で描写された冷たく無機質な絵を、小学生が好きなわけがない。

「なんかアニメのキャラとか、好きじゃないの」

「そーゆーの、あんまり見ないんだよね」

 だけどたまに、もう一人の自分と対話するように波長が重なるときがあった。今もそう。目に見えてるものは何一つ似ていないのに、見えない部分で繋がっている。きっとその一つが、小学生らしからぬ心の中の無機質さなのかもしれない。

「そっか、ちょっと待ってて」

 そう言って僕は席を立ち、押入れの奥からこれまでのスケッチブックを全て引っ張り出した。シンはその中の一冊を埃を払いながら手に取り、一ページずつ、ゆっくりと捲っていき──その度、段々と沈黙が深まっていく。絵を見るシンの真剣な眼差しは、下足場で教科書を読んでいたときと同じだった。

 母さん以外にも自分の絵をこんなにも真剣に見てくれる人がいる。二つ目の新しい発見だった。

「マサル、絵描くの好き?」

 最後のページを閉じると同時にこれまでとは違うワントーン低い声と、どこか少し寂しげな表情を見せそう聞いてきた。

「別に、好きじゃない」

 シンの顔が少し綻ぶ。

「一緒だなぁ、俺も勉強そんなに好きじゃないもん」

「でも」と言う声に押し上げられたかのように顔を上げ、僕の目を見る。

「やってると、父さんも母さんも、何か嬉しそうなんだよね」

 そのとき、初めて母親以外の瞳孔を見た。その澄み切った黒が全て自分で埋めつくされていることに少し嬉しさを感じた。気づけばいつものように視線をずらすことさえ忘れ、その黒に浸り続ける自分がいた。

「なんか、マサルも一緒の気がした」

 そう、一緒だ。自分のために絵を描くなんて考えたこともなかった。母さんを守ってあげれる程、体も腕っぷしも強くない。だから鉛筆を握る、それだけが唯一、母さんのためにできる事だから。

 シンは僕の絵のどこを、何を見てそう思ったのだろう。

 僕は二冊目のスケッチブックをまじまじと見続けているシンの横顔を見ながら、喉元まで上がってきた疑問を残っていた麦茶で勢いよく飲み込んだ。

 

 それからシンとは何度も遊ぶようになり、お互いの家を行き来した。シンはお金持ちで、家にあるもの全部が大きくて、おやつには真っ赤なイチゴのショートケーキと果物をそのまましぼったオレンジジュースが出てきて、お母さんはいつも笑顔で幸せそうだった。

 代わってほしいと思うぐらい、素敵なものに囲まれているのに、何がシンの内側を僕と同じ色に染めるのだろうと、シンの家に行く度に思った。

 僕はシンに絵を教え、シンは僕に勉強を教えてくれた。

 シンの説明は先生の授業よりも分かりやすく、苦手だった算数の宿題も徐々にやるのが楽しくなっていき、シンも持ち前の観察力と集中力で、どんどん模写が上手くなった。

 学校での休み時間もお互い同じ物を模写し感想を言い合ったり、算数のテストの点数が上がっていったりして、灰一色だった毎日に色がついていった。そんな僕を見て陰口を叩く奴らの声も、どうだっていいと思えるようになった。

 そのまま三年の月日が経った。四年生では別々のクラスだったけど、部活動がない金曜日以外はいつものように一緒にいた。

 ある日、僕の家で宿題をしていると、シンが徐にランドセルから一枚の写真を取り出した。 

「なぁマサル、人ってどうやって描くの」

 算数ドリルをやっていた手が止まった。これまで人を描いたことがなかった。いや違う。描こうとしても、描けなかった。

「また、今度教える」

 なんとなく嘘をついた。すぐ後にはいつも通りやってくる虚しさが全思考を停止させた。

「実はさ、家族みんなの絵描いてプレゼントしたいんだ」

 そう言ったシンの手には、どこかの旅館をバックに撮影された家族写真が握られていた。そこには初めて見るシンのお父さんがいて、シンよりも頭二つ分体が大きいお兄さんがいて、いつものお母さんとシンがいて、一般的なあるべき家族構成をした人達が写っていた。

 これが家族。脳の右側に血が流れていくのが分かった。幸せ。徐々に写真の中のシンが自分に変わっていく。だけどそれと同時に、周りの家族を構成する人達が薄くなり消えた。

「お父さん、なんの仕事してるの」

 何故か無意識に言葉が尖ってしまう。

「お医者さん」

「シンもなるの」

 今度は角を削るよう声にした。

「まだ、分かんない」

「なりたくないの」

「それも分かんない、でも、なって欲しいんだってさ」

 一緒に始めたはずのシンの算数ドリルがゆっくり閉じられる。

「そんな理由でなっていいのかな」

「いいんじゃない」

 いいんじゃない。瞬時に脳内で反芻された無機質な言葉は、自分でも驚く程尖っていて、冷たかった。

「マサルらしいな、その感じ」

 丸く暖かいその言葉で凍った空気が相殺される。

 何故そんなことを言ったのか、自分でも分からなくなるときがある。脊髄反射のように出る言葉は必ず相手を傷つける。なのに。

「おっ、ラッキー」

 そのとき、おかかのおにぎりが載った皿がシンと僕のちょうど真ん中に置かれた。以前、僕の母さんがおやつにと気を利かせて、作ったおにぎりがシンの胃袋を掴み、それ以来、家に帰っても作ってもらうぐらい大好物になったらしい。

「いいよ、僕のも」

 皿を人差し指でシンの方に寄せる。

「まひれ、あひかほ」

 リズムよく口に入れられては咀嚼されていくおにぎりは、あっという間に全てシンの胃袋に入った。

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