第8話

 喫煙所で煙草を吹かしていると、米山がやって来た。

 めずらしい人が来たな。深津はそういう目で米山を見ると、冗談半分に煙草を一本差し出してみた。

 米山は首を横に振り、話があるからちょっと来いといった感じで、深津のことを連れ出した。

 向かった先は、会社の近くにある喫茶店だった。

 出入り口からは見えにくい、奥の席。米山はその席を選ぶと、マスターにアイスコーヒーを2杯注文した。

「どうかしたんですか」

 いつになく真剣な表情の米山に、深津は尋ねた。

 米山は見知った顔が店内にいないことを確認してから、話をはじめた。

「再来月の役員人事の内示が出た」

「そうですか」

 あまり興味のない話だった。しかし、深津はそのことを顔に出さずに米山の言葉に相槌を打った。

「向田専務は失脚だ」

 役員人事などに興味はなかった。別に経営層が変わったとしても、いままでと同じように安定した生活を送ることができれば良い。深津はその程度にしか考えてはいないのだ。

「替わりに、麻木局長が専務に昇進だ。これは俺たちにとって追い風となるぞ」

 米山は嬉しそうに言った。

 麻木局長というのは、米山の直属の上司だった。米山の上司ということは、米山の下にいる深津の上司ということにもなる。

 だが、深津からすれば麻木局長などは、ほとんど話をしたこともないような相手であり、たまに廊下ですれ違って挨拶をする程度でしかなかった。

「上手く行けば、俺は局長になれるかもしれないぞ」

 麻木局長の後釜に自分が据えられる。米山はそう考えているようだ。

 しかし、麻木局長の下には米山を含めて3人の部長職がいる。他の二人の部長はどう思っているかはわからないが、米山は自分が頭一つ抜け出ていると思っているようだった。

「その時は、俺について来いよな、深津。お前も部長だ」

 笑いながら米山はいった。

 深津は出世などということには、興味がなかった。いまの地位で十分に満足している。逆にこれ以上、仕事や責任というものが増えるのは御免だった。

 ウエイトレスが持ってきたアイスコーヒーにガムシロップを2つ入れた米山は、勢いよくストローでアイスコーヒーを半分ほど飲んだ。

「きっと来月から面白いことになるぞ」

 コーヒーを飲みながら、しばらく米山の話に付き合って、深津は職場へと戻った。

 いつもと変わらぬ、職場の風景。皆忙しそうに仕事をしている。

 昼行灯。そう呼ばれていることは知っている。実際にそうなのだから、文句は言えないし、言うつもりもない。

 いつもと同じように部下から来た申請書にハンコを押して、時間がすぎるのを待つ。何か問題が起きれば、責任を取るという形で謝りに行く。そんな今の自分の立場が深津は一番好きだった。

 定時になり、部署の誰よりも早くパソコンをシャットダウンさせて立ち上がる。

「お先」

 その残業をしようとしている部下たちに声をかけて、部屋を去る。

 それでいいのだ。

 深津は自分にそう言い聞かせるようにしながら、タイムカードを押して退勤した。


 今夜は、家に帰っても誰もいなかった。

 妻の雪枝は最近始めたフラワーアレンジメント教室の日だし、娘の美紀は友人と外食をすると言っていた。美紀とは仲が悪いというわけではなかったが、妻のいない日に二人っきりで食事をするということは一度もなかった。やはり、どこかまだ壁のようなものがあるのだろう。深津も無理に誘おうとはしなかったし、美紀も自分から先に「今日は友だちと外食してくるから」と告げていた。

 そんな日は、深津も家で食事は取らずにどこかで一杯引っ掛けてから帰ることにしていた。

 行きつけの赤提灯。ここであれば、ひとりの時間を有意義に過ごすことができる。

 店内に入り、ひとりだと告げるとカウンター席に通された。

 生ビールと枝豆。お通しで出てきたのはタコワサだった。

 ジョッキを空にした後は、焼き魚と日本酒を注文してチビチビとやる。

 酒は強い方だった。昔、築山に鍛えられたといってもいい。

 築山はまったく酔った姿を見せない人だった。日本酒一升をひとりで飲んでもケロリとしており、どんなに飲んだとしても酔うことはないのだと言っていた。

 あの頃の築山を思うと、ベッドの上で管を通されながら生きている今の姿などは想像もできないことだった。

 もう築山は長くはない。本人も口にしていたが、そのことだけは確かだ。命の灯が消えようとする中で、築山は何を思っているのか。

 3年前まで、深津は築山と一緒にヤマを踏んでいた。あの頃の築山から現在の築山の姿などは想像できないものがあった。獅子。若い頃に築山が呼ばれていた異名だ。獅子といえば築山のことを指し、築山といえば獅子のことを指した。

 獅子を継ぎし者。深津もそう呼ばれたことがあった。

 しかし、それは3年前までのことだ。

 獅子と呼ばれた男は病魔に冒され、獅子を継ぎし者と呼ばれた男は現在は昼行灯と呼ばれている。

 それでいいのだ。

 深津はそう思いながら、日本酒のおかわりを注文した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る