第8話
デスクの上に置かれた固定電話が鳴っていた。
目の前には深津が座っているのだが、その音が聞こえていないかのように、じっとしたまま動かなかった。どこか魂でも抜けてしまっているかのように呆けた顔をしている。
調子が悪いから休むといって数日欠勤した深津は、何事もなかったかのように出勤したが、顔には痣の痕がはっきりと残っていた。そのため、出社時はサングラスを掛けていたが、職場ではさすがに掛けたままとはいかず、痣だらけの顔で自分の席に座っていた。
「大丈夫かい、深津くん」
定年間際の上司は本当に心配そうな顔をして聞いてきたが、深津は無言で頷くだけで何も語ろうとはしなかった。
そして、デスクワークをはじめたかと思えば、この様子である。
「深津くん、深津くん」
さすがに心配になった上司が深津に声を掛けてきたが、深津はどこか上の空といった感じで空返事をするだけだった。
「深津くん!」
なんだ、面倒臭いな。深津はそう思いながら、上司の方へと顔を向けた。
「どうかしましたか」
「いや、電話」
「え?」
「ずっと電話が鳴っているよ」
「え……ああ」
深津はそう言われてはじめて自分の目の前に置かれている固定電話が鳴っていることに気がついた。いつから鳴っていたのか。深津の耳には、まったく電話の音は聞こえていなかったのだ。
受話器を取って耳にあてると深津は不自由ながらも口を動かした。
「もしもし――」
「深津さんですか?」
「はい、どちら様でしょうか」
一応、会社の電話であるため言葉遣いには注意したが、どこか警戒した気持ちがあった。取引先の企業の人間とは電話やメールでやり取りをすることはあるが、ほとんど深津を名指ししてくることはない。電話の大抵は、定年間際の上司への取次である。今回の電話は自分を指名してきた。それだけでも、深津には警戒をする理由になったのだ。
「佐久間だ。ちょっと出てこれないか」
「わかりました。では、伺います」
余所行きの口調でそう言って電話を切ると、深津は上司の方へと顔を向けた。
「すいません、取引先の人から呼び出しが掛かりました。ちょっと行ってきて、そのまま直帰します」
口から嘘が滑らかに出た。そもそも取引先の人間との付き合いなどは、これまで一度も無かった。それにも関わらず、上司は興味無さげに「わかった」とだけ告げると、深津の外出を認めた。
会社から出ると、深津はサングラスをかけ、地下鉄の出入口に向かって歩きはじめた。
しばらく歩いたところで、背後からクラクションを鳴らされた。振り返るとシルバーのBMWが路肩に停められており、運転席には佐久間の姿があった。
「すまないな、仕事中に呼び出して」
「いや、ちょうど仕事に飽きていたところだ」
そう言って深津はBMWの助手席に乗り込む。
深津が乗ったことを確認した佐久間は、無言のままアクセルを踏むと大通りを走り出した。
しばらく無言のドライブが続いた。助手席に座っている深津には佐久間がどこへ連れて行こうとしているのか見当もつかなかった。
BMWのエンジン音は心地よかった。このエンジン音を聞いているだけでも、佐久間が車好きなのだということはわかった。よく手入れがされている。
首都高に乗り、横浜方面へと車は向かっていた。そして、途中の埠頭入り口というインターで高速を降りて、海沿いの道を走った。
見覚えのある景色が広がっていた。ここは数日前に片桐の運転で着た場所の近くだった。そう、深津がはじめて仕事をこなした倉庫である。
嫌な予感を深津は、覚えていた。
佐久間は表情を変えずに運転に集中をしている。
そして、車が埠頭の倉庫街に入ったところで深津は口を開いた。
「どういうつもりだ」
「なにが」
「ここはこの前、俺が仕事をした場所じゃないか」
「知ってる」
「知っていて連れて来たのか。何のつもりなんだ」
「安心しろ。この前の仕事とは別だ」
そう言って佐久間は車を停めると、深津に降りるように指示した。
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