第10話
いつもよりも少しだけ早く家を出た深津は、昨晩の公園の脇を通って駅へと向かった。
公園内はいつもと変わらない様子で、老人たちがウォーキングをしていたり、話に夢中になったりしている。
警官の姿はどこにもない。昨晩の連中は叩けばホコリが出るような連中だった。だから、警察に駆け込んだりはしないだろうと予想は出来ていたが、少々やりすぎた気もしており、深津は気になっていたのだ。
特に変わった様子の無い公園を見た深津は、安堵して会社へと向かった。
自分という人間は元来小心者なのだ。小心者だからこそ、引退するまで無事でいられた。少しでも危険を感じ取ったら手を引く。それが深津のやり方だった。
満員電車に揺られ、熱気のこもった中年サラリーマンの背中に押されながら、社の最寄り駅に着くと、人の波に押し出されるようにして改札を抜ける。
いつもと変わらない、日常。
午前中は特にすることもなく、ただ届いたメールを読むだけで終わった。
昼休みは会社の外に出ることにしていた。
社内にいるのが窮屈だとか思ったことはないが、昼飯くらいは旨いものを食べようと思っている。きょうの昼は、会社の近くにあるとんかつ屋でロースかつ定食を注文した。キャベツはお替り自由であることから、一回だけキャベツをお替りして昼食を終えた。
昼食後は、いつものように会社のビルの喫煙スペースで煙草を吹かす。
空を見上げると、いまにも泣きだしそうな鉛色の雲に覆われていた。
深津は妻の忠告を無視したことを後悔していた。
出掛けに妻は雨が降るから傘を持って行けと、念押して言っていたのだ。
それでも深津は家を出る時に傘を持たなかった。言われたそばから、忘れてしまっていたのだ。
また家にビニール傘が一本増えるな。そんなことを思いながら、深津は紫煙を吹き上げた。
スラックスのポケットに入れてある携帯電話が着信を告げていることに気づいたのは、ちょうど煙草を灰にし終えた時だった。
ディスプレイには、見知らぬ番号の羅列が表示されている。
「もしもし――」
警戒という言葉を頭の中に刻みながら深津が電話に出ると、受話口の向こう側からは聞き覚えのない男の声が聞こえてきた。
「深津さんの携帯電話でよろしかったでしょうか」
「ええ。そうですが……そちらは?」
「警視庁第二機動捜査隊の後藤と申します」
「警視庁?」
「はい。実はですね、築山さんがお亡くなりになられまして……」
「築山の親父……義父がですか」
「いま築山さんが入院されている病院におります。すみませんが、身元の確認に来てはいたけだないでしょうか」
「病死というわけではないのですね」
病院からではなく、わざわざ警察が電話を掛けて来たということは、病死ではないのだろう。わかりながらも、深津は後藤という男に疑問の言葉をぶつけていた。
「詳しいことは、こちらに来られてからお話させていただきます」
「わかりました。すぐに向かいます」
電話を切ると、深津は走り出していた。階段を一気に駆け下り、オフィスへに飛び込むと、直属の上司である米山に早退をする旨を告げた。米山には、義父が入院している事は話してあったので、深津は問題なく早退を許された。
会社を出て、タクシーでも捕まえようかと歩道を歩きはじめたところで、背後から甲高いクラクションが鳴らされた。
振り返ると、そこにはシルバーのBMWが停められており、運転席から佐久間が顔を出していた。
「深津さん、乗ってください」
なぜ、このタイミングで佐久間が現れたのだろうか。一瞬ではあったが、深津は佐久間のことを疑った。
「何をしているんですか。はやく乗ってください」
佐久間にせかされて、深津は助手席へと飛び乗る。
「どうして、わかった」
「実は病院にいました。見張っていたんですよ」
深津がシートベルトを絞めたことを確認し、佐久間はBMWのアクセルを踏み込んだ。
「なぜ、築山の親父を見張る必要があった」
「別に築山さんを見張っていたわけじゃありません。別の人間を追いかけていただけです」
「別の人間?」
「先週、深津さんが断った仕事の相手です」
「そうか……」
ふたりの間に沈黙が流れた。聞こえるのはBMWのエンジン音だけだ。
「築山さんを」
「待て、それ以上言うな」
深津は佐久間が喋るのをさえぎった。
いまは聞きたくない。そんな気持ちだったのだ。
「わかりました。落ち着いたら、話します」
「ああ、すまない」
佐久間の運転する車が病院のロータリーに到着し、深津は佐久間に送ってもらった礼を言って、車を降りた。
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