第13話

「あなたが帰ってくる少し前に、片桐から電話があったわ。父を殺したのは自分だって。十五年前の復讐をしたんだって……お願い、片桐を殺して」

「やめろ。そんな話」

「なに言っているの、父を殺したのは片桐なのよっ!」


 深津は、雪枝の頬を平手で張っていた。一瞬ではあったが、自我を忘れていた。


「どうして……どうしてなの。あの男は父を殺したのよ。あなたは、それを黙って見過ごすっていうの」

「俺はもう引退した身だ……二度とヤマは踏まない。そう約束したんだ」


 雪枝は嗚咽を上げながら泣いていた。

 深津はそんな雪枝を放ってリビングを後にすると、服を着替え、外に出た。このまま家にいたのでは自分がおかしくなってしまいそうだった。


 行く当ても無く、深津は夜の街を歩いていた。

 いつもならば呼び込みや立ちんぼが声を掛けてくる通りを歩いているにも関わらず、誰も深津には声を掛けてこようとはしなかった。

 連中は直感的にわかっているのだ。深津が内に秘めている、ただならぬ感情の事を。これは野生の勘のようなものなのだろう。何度も修羅場を潜ってきた人間だからわかることなのかもしれない。


 強い酒を欲していた。強い酒であれば何でもよかった。だから、適当に店を選び、入った。

 店内に薄暗い明かりが灯っている、小さなスナックだった。

 客は深津以外に二人ほどいた。二人とも、どう見てもサラリーマンには見えないタイプの男だった。


「お客さん、はじめてかしら」


 ドアを入ったところで深津が店内を観察していると、お世辞にも痩せているとはいえない中年女性がカウンターの中から声を掛けてきた。

 その声に誘われるかのようにカウンター席へと腰を下ろし、ウイスキーをストレートで注文した。

 酒の注文はボトルを入れなければならないと言われ、無言で頷きボトルタグに深津と名前を書き込んだ。タグには偽名を書き込んでもよかったが、二度とこの店に立ち寄る事は無いだろうと思い、そのまま本名を書いていた。

 出てきたのは、安物のウイスキーだった。ボトルを手に取ると、ロックグラスに半分ほど注ぎ、そのままストレートで口を付けた。

 喉から胃に掛けて焼けるような熱さが通り抜けていく。

 最初の一口でグラスの中身を半分ほど飲み、二口目で完全に飲み干した。

 グラスが空になると、新たにボトルからグラスへとウイスキーを注ぎ込み、また二口で飲み干す。


「お客さん、そんな飲み方をしていたら体壊しちゃいますよ」


 3杯目のウイスキーを飲み干した時、カウンターの中にいた女性が言った。

 だが、深津はその言葉を無視して4杯目のウイスキーも同じ様に飲み干す。こんな飲み方をしているにも関わらず、酔いは、まったく回ってこなかった。

 これ以上飲んでいても無駄だと思い、深津は席を立った。お勘定とカウンターの中の女性に告げ、ポケットから財布を取り出す。

 カウンターの上に乗せられた伝票には八万という数字が書かれていた。あのウイスキーが八千円だとしても高いというのに、八万円というのはやりすぎだった。それに深津の財布の中には一万円札が二枚しか入っていない。


「これ、どういうことだ?」


 伝票を女性に突き返しながら、深津は言った。深津の声に怒りは篭っていない。

 その言葉に反応するように、奥の席で飲んでいた二人が席を立つのが見えた。

 やはり、そういう店だったか。深津は薄ら笑いを浮かべながら、こちらへと向かってくる二人へと視線を送った。


「お客さん、飲食代を払わないつもりですか?」

「別に払わないとは言わないさ。ただ、料金が高すぎる」

「ウイスキーボトル一本入れたんだから、妥当な料金じゃねえか?」

「私はそうは思わないね」

「やっぱり、払う気ないんだろ?」

「払う気はある」

「舐めやがって」


 一人の男が、深津の胸倉を掴もうと手を伸ばしてきた。だが、その手は空を掴み、深津の着ているシャツにすら触れることはできなかった。


「この野郎っ!」


 今度はもう一人の男が殴りかかってきた。こちらも拳は空を切っていた。

 深津は最初から同じ場所に立っている。だが、二人とも深津に指一本触れることはできないでいた。


「一万円払う。それでいいだろ」


 財布から一万円札を一枚取り出し、カウンターの上に置いた。


「そんなんで済むわけがねえだろっ!」


 スツールを頭上に持ち上げた男が叫びながら、深津の頭めがけてスツールを振り下ろしてきた。

 この時ばかりは、深津も体を動かしていた。男がスツールを振り下ろすよりも先に、一歩前へ踏み出した。踏み出すと同時に、左の肘を男の顎先へと伸ばす。深津の左肘は男の顎先にかすめるように当たっていた。

 それだけで十分だった。

 男は、スツールを頭上へと持ち上げたままの状態で動きを止めていた。体が小刻みに震えたかと思うと、白目を剥き、その場に崩れ落ちた。スツールがガラス製のテーブルにぶつかり、派手な音が響き渡る。


「てめえ」


 もう一人の男がナイフを片手に、じりじりと間合いを詰めてきた。ナイフは刃渡りの大きな物で、ライトの輝きによって妙な光を帯びていた。


「よせよ。道具を出されたんじゃ、こっちも手加減は出来なくなる」


 深津は男の手にあるナイフを見つめながら言った。

 勝負は一瞬でついた。

 男が突き出してきたナイフの刃を避けた深津は、瞬間的な関節技で男の肘を砕いていた。


「帰らしてもらうぞ」


 深津の言葉に反応出来る者は、店内には誰もいなくなっていた。

 つまらないことをしてしまった。深津の中で後悔の念が起きていたが、それを押し殺すようにして店を後にした。

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