第2話

 朝の会議は大荒れだった。

 決まっていたはずの予算を経理部が通せないと言い出したのだ。

 部長である米山は憤慨し、資料説明をしていた経理部の若い女性社員に対して、お前じゃ話にならないから経理部長を呼んで来いと食って掛かり、別の会議に出席していた経理部長をこちらの会議へと呼び出して、説明をさせるという一幕があった。

 会議室へとやって来た経理部長は、いまの会社の経営状態を考えれば予算を通すことは出来ないということは明確であると強い口調で反論し、米山と睨みあいとなった。


 そんな状況下にあっても、深津はただ黙って座っているだけだった。

 昼行灯ひるあんどん。他部署の誰かがつけた深津のあだ名だ。


 深津はそんなあだ名も気にすることはなかった。よく当てはまるあだ名をつけるものだと感心していたほどだ。

 会議は予定していた1時間を超えたところで、次の会議のために会議室へやってきた別部署の人間たちによって強制的に終わらされた。


「続きは明日だ」

 そのあとに「首を洗って待っておけ」とでも付け加えそうな勢いで米山が経理部長に言って、その日の会議は終了した。


「ちょっと一服してから戻ります」

 会議室から職場に戻る途中で、米山と別れた深津はその足で『喫煙室』と銘打たれた屋上の隔離スペースに向かう。

 そこにはすでに先客がおり、ストレス発散と言わんばかりに紫煙を青空へと吹き上げていた。


「お疲れ様です」

 深津は挨拶をしながら煙草を咥えて火をつける。

 そこにいたのは、先ほどまで会議室で一緒だった経理部長だった。


「ああ、お疲れ様でした」

 ふたりの間に先ほどの会議の話題はのぼらない。

 お互い、いまは仕事モードではないのだ。


 特に共通の話題もない二人は会話をすることもなく、煙草を吹かす。

 しかし、険悪な雰囲気や空気が張り詰めているというわけではない。ただ、その空間を共有している。それだけなのだ。


「明日もよろしくね」

 先に一本吸い終えた経理部長が、煙草の火を灰皿でもみ消して、ブースから出て行く。


 しばらくの間、深津はひとりで煙草を吸っていた。

 冬の寒空だったが、風はなく、心地よいぐらいの日差しがあった。

 刺激のない毎日。

 それが深津の求めた日常だった。


 煙草を2本ほど吸った後、スーツのジャケットを軽く叩いてから事務室へと戻った。ジャケットを叩いたのは、少しでも煙草の匂いが消えればという気休めだ。


 午前中は部下から提出された書類にハンコを押すという仕事を2件ほどこなして終わった。

 昼食は近所の蕎麦屋へ出かけた。

 人によって昼食の取り方は違うが、深津は外に出て食べるのが好きだった。

 若い連中は、コンビニで弁当を買ってきたり、近くの広場に来ているキッチンカーで食事を買ってきたりして、社内にある食堂とは名ばかりの飲食スペースで食べるか、部署の自分の机で食べていたりしている。

 蕎麦屋で深津が注文したのは、ざるそばを一枚。それだけだった。

 特にカロリーの消費もない日は、これだけで十分なのだ。


 昼食を終えて事務室へと戻ると、電話番をしていた部下から声をかけられた。

「先ほど、課長宛に電話がありましたよ」

「え、誰から」

 自分宛てに電話が掛かってくることなど珍しい。どこかの取引先から苦情の電話だろうか。深津はそう思いながら話を聞いていた。


「サクマさんという男性の方からでした。伝言があればといったのですが、また電話をすると言って切られました」

「サクマさん、ねえ……」

 深津の記憶にサクマという取引先の人物はいなかった。

 唯一、心当たりのある佐久間という人物はいるが、その人物が深津に電話をかけてくるということは考え難かった。


 その日の午後も大きなトラブルなどはなく、深津は部下の作成した資料に目を通すだけで一日が終わっていった。


 定時になり、パソコンをシャットダウンする。

 深津の辞書に残業という言葉は存在しない。誰よりも先に業務終了を宣言すると、部下たちに声をかけながら一番最初に事務室を出る。

 残業している部下も何人かいることは知っている。だが、深津が残っていたところで、彼らの役には立たないということも知っていた。それならば、自分がいない方が良いだろう。それは、深津なりの配慮でもあった。

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