獅子を継ぎし者
大隅 スミヲ
第一部
第1話
煙草を吹かすのも仕事だった。
喫煙スペースと題された狭い空間では、様々な部署の人間が集まってきており、そこで交わされる会話は情報交換のようなものであった。
お互いの部署の愚痴。それがほとんどではあるが、時に有益な情報がもたらされることもあり、新たなビジネスに結びつくこともあるのだ。
だから、喫煙スペースは潰すべきではない。
そう熱弁を奮っていた
きっかけは娘さんの妊娠だった。里帰り出産というやつで、
受動喫煙は、妊婦にとって最大の敵でもある。
そう娘に説明されて、米山は白旗を挙げた。
「お前も、いい機会だからやめたほうがいいぞ」
まるでリストラを宣告するかのように米山が言った。
本当はこの人も煙草を辞めたくはなかったに違いない。仕方なく、敵方の軍門に降ったのだ。
「そうですね、私も機会があれば」
そう短く言うと、深津は咥えていた煙草に火を付けた。
会社の近くにある赤提灯の焼き鳥屋だった。
この店はまだ喫煙席と禁煙席にわかれておらず、焼鳥の匂いと酒の匂い、そして煙草の匂いが入り混じっていた。
眼の前で深津が煙草を吸っていても、米山は微動だにしなかった。
米山の意思は強いようだ。
その日は、瓶ビールを1人2本空けただけで、解散となった。
明日も朝から会議があるのだ。
その会議のための作戦会議と称した飲み会だった。
しかし、特に仕事の話をしないままぐだぐだと愚痴を言い合いながら酒を飲み、時間いっぱいで作戦会議は解散した。
結局、この作戦会議とは何だったのだろうか。そんなことを考えることもなく、終電前の混雑した電車に深津は飛び乗った。
順風満帆とはいえない、サラリーマン生活だった。
40を過ぎてようやく課長という役職についた。
同期入社で会社に残っている連中は、とっくに部長やもっと上の役職についている。
しかし、深津は満足していた。特にこれ以上の出世も望んではいない。
仕事ができないというわけではなかった。ただ、やる気が無いのだ。
20代の頃は、無断欠勤や無断早退を繰り返していた。クビにならなかったことが奇跡に近いと思える。
30代の頃は、同期たちが出世していく背中を見つめていた。特にそれがうらやましいとは思わなかったし、会社にいられるだけでもありがたいと思っていた。
そして、40を過ぎた時、突然内示が通達された。
情報技術課長。それがいまの深津の役職だった。
課長という立場にあるが、情報技術課の仕事はさっぱりわからなかった。ずっと事務方畑を歩んできた。それが突然、技術屋の指揮官になれと言ってきたのだから、深津は困惑せざるえなかった。
責任を取るためにいればいいから。そう、上司の米山からはいわれている。
仕事に関しての立ち回りは、課長補佐の堀田が全部やってくれていた。堀田は20代後半のやる気に満ち溢れた男で、仕事の出来る男だった。
だから、深津は仕事のことで口出しはしない。
ただ、何かあった時に謝りに行ったり、責任を取るために、いつもいるのだ。
普段は席に座っているだけの存在。部下たちはそう見ているだろう。
それでも、深津はなぜか部下たちから慕われていた。
理由は自分でもわからなかった。
飲み会があれば顔と金は出すし、他部署との交渉事には必ずついていくようにはしている。やっていることといえば、そのくらいなのだ。
明日の会議も顔を出せばいいとだけ、部長の米山からは言われていた。
技術的な話などは、すべて堀田がやってくれる。
事前の資料を堀田から渡されてはいたが、読んでも専門的な話ばかりでよくわかってはいなかった。
会議で眠くならないように、きょうは早く寝よう。
そんな事を考えながら、深津は電車に揺られていた。
帰宅したのは、日付が変わる直前だった。
玄関の鍵を開けると、正面にあるリビングの電気がついていた。
しかし、人の気配は感じられない。
「ただいま」
聞こえるかどうか微妙なぐらいの小声で深津はつぶやく。
返事はなかった。
靴を脱ぐと、各部屋の気配を読み取る。
リビングは電気がついているが、人の気配は感じられない。
その手前にある子供部屋は扉が閉まっている。しかし、娘の
足音を忍ばせて廊下を歩くと、リビングルームに顔だけを突っ込んで中の様子を確認した。テレビがつけっぱなしとなっており、ソファーの上でパジャマ姿の妻の
そのまま足音をさせずに妻に近づき、落ちていたブランケットを妻の体に掛けてやり、ローテーブルの上にあったリモコンで、テレビの電源をオフにした。
洗面所でうがい手洗いを済ませ、今度は足を音させながらリビングへと入る。
妻は足音で目を覚ましたようで、寝ぼけ眼をこちらへと向けていた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
夫婦の会話はそれだけ。お互いが元気であるということが確認出来れば、それでいい。
深津はネクタイを解きながらキッチンに向かい、冷蔵庫を開けてペットボトルの飲料水をコップへと注ぐ。
「先に寝るね。おやすみ」
妻はそう言ってソファーから立ち上がると、寝室へと向かった。
部屋が静寂を取り戻した。
時おり、子どもの部屋から押し殺したような笑い声が聞こえてくる。
「明日も早いし、風呂に入って、寝るか」
独り言をつぶやき、風呂の追い焚きスイッチを入れると、深津はパジャマの用意をした。
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