第6話

 土曜日の朝、深津は妻と娘を車に乗せ、築山の入院する病院へと向かっていた。

 娘の美紀は最初、病院へ行くのを面倒くさいと言って嫌がっていたようだが、雪枝が何とか説得したようだった。


 駐車場に車を入れ、病院の正面玄関へと向かう。深津が一人で来た時は、駐車場と直結している職員通用口から侵入するが、さすがに妻と娘が一緒の時はそのような真似はしなかった。


 正面玄関を通り抜けると、大きなロビーに出る。

 ロビーは青白い顔をして咳き込んでいる若い女性や足にギブスをしている中学生ぐらいの少年、点滴のパックをぶら下げたポールを片手にパジャマ姿で他の入院患者とお喋りに夢中になっている中年女性など、多種多様な人々でごった返していた。

 土曜日は診察が午前中だけなので、いつもよりも混雑しているようだった。


 ロビーの外れにあるエレベーターに乗り込むと、築山の部屋がある三階のボタンを押した。エレヴェーター内には、深津たち三人しか乗っていなかったが、誰も言葉を発しようとはせず、妙な空気が流れていた。


 エレベーターを出て、消毒液の匂いが染み込んでいる廊下の突き当たりにある部屋へと向かう。美紀はこの匂いが嫌なのか、眉間に皺を寄せて顔を顰めていた。


 部屋に入ると築山は点滴を受けながら眠っていた。先日来た時よりも更に痩せた印象を持ったが、深津はその事を口に出さずにいた。もし、そんな事をいえば、雪枝は心配するだろう。


 花瓶には花が生けられていた。先日、一人で来た時に花は始末したはずである。花瓶に生けられた花は真新しい物で、生けられてから二、三日程度しか経っていないように見えた。雪枝もその花に気付いたようで、誰かお見舞いに来てくれたのかしらと首を傾げている。

 築山の見舞いに来る人間など、そうはいないはずである。雪枝は築山の一人娘であるし、築山の兄弟は皆、他界している。築山の甥や姪に当たる人物はいるかもしれないが、親戚付き合いというものは無く、深津は一度も会った事は無かった。


「おお、来てくれたのか」

 築山が目を開けて、ゆっくりとした口調で言った。

「あら、お父さん。起こしちゃった?」

「いや、いいんだ。ちょうど、起きようと思っていたところだ」

 築山はベッドの上で体を起こすと、雪枝と美紀に優しい笑顔を見せた。

 深津はそんな築山の姿を見たくは無かったので、窓の外に見える公園の景色へと目をやっていた。

 こんなに弱々しくなった築山の姿は見たくは無かった。

 昔の築山は、殺気の溢れる目をしており、気軽に話し掛ける事すら躊躇ためらうほどだった。それに比べて、いまの築山はどうだろうか。娘と孫に囲まれて笑顔を絶やさない老人となっている。これが老いというものなのだろうか。いずれ、自分もこうなってしまう時が来るのかと思うと、深津はぞっとした。


「悪いが新聞を買ってきてくれないか。それとジュースでも買ってきなさい」

 築山がベッドの脇にあるサイドテーブルの引き出しから財布を取り出すと、雪枝と美紀に向かって言った。どうやら、深津と二人っきりで話がしたいようである。

 それを雪枝は感じ取ったのか、その空気が読めていない美紀の手を引くようにして、病室から出て行った。


 雪枝と美紀が病室から出て行ったことを確認した後、築山は深津に対して重々しく口を開いた。

「一昨日の夜、佐久間の小僧が現われた」

「やっぱりですか。私のところにも来ましたよ」

「そうか。話は聞いたのか?」

「いえ。仕事の話ということだけは聞きましたが、それ以上は聞きませんでした」

「それは、賢明なことだ」

 それだけ言うと、築山は口を噤んだ。重々しい空気が部屋に張り詰めていた。無性に煙草が吸いたくなっていた。シャツの胸ポケットにある煙草へ手を伸ばそうかと思ったが、ここが病室であるということを思い出し、その手を止めた。


「俺との約束は覚えているな」

「はい」

 築山との約束。それは、仕事を引退して、二度とヤマを踏まないということであった。仕事というのは、サラリーマンとしての仕事ではなく、深津が3年前までやっていた稼業の事である。その稼業は、20の時に初めてヤマを踏んで以来、37になるまでの17年間続けてきた。深津を一人前として育て上げたのが、築山だった。築山はその業界では有名な男であり、深津は築山の技を受け継いでいた。

 しかし、37歳になった時、深津は稼業から足を洗った。深津は築山の娘である雪枝と恋に落ちていた。37になって、初めて人を愛せるようになったのだ。

 だが、築山は雪枝との恋を許してはくれなかった。どうしても一緒になりたいというならば、稼業から足を洗えと築山は言った。それが、雪枝と一緒になる条件だった。

 深津はその条件を飲み、雪枝と一緒になった。そして、築山の義理の息子となったのだった。引退してから3年になるが、未だにその約束は破られてはいなかった。


「雪枝や美紀を悲しませる事だけは、許さん」

「わかっています」

 会話はそこで終わった。もう、話すことは何もないと言わんばかりに築山はベッドへ横になると目を閉じてしまった。


 雪枝と美紀が戻ってきた時には既に、築山は鼾をかいて眠っていた。

 それが演技であるかどうかは見抜けなかったが、新聞をベッドサイドに置くと、三人で病室を後にした。

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