第7話

 木曜日は、仕事帰りにジムへ行く。

 ここ3年、深津が続けていることだった。


 ジムといってもトレーニングジムではなく、ボクシングのジムであり、午後7時からは会社帰りのサラリーマンを対象にしたボクシングの基礎クラスが開かれていたりしていた。

 しかし3年も通っている深津は、すでに基礎クラスの生徒からは脱却して、プロ志望の練習生たちと同じようなメニューに取り組んでいる。


 縄跳び、シャドー、サンドバッグ、ミット打ち、そしてスパーリング。深津はすべてを自分の娘と年齢がほとんど変わらないような連中と一緒にやっている。


 その日は珍しく、ジムにいる練習生は深津ひとりだけだった。

 あとは先日プロになったばかりの若者と、トレーナーがいるだけ。人が少ない方が練習がしやすいということもあるので、深津にとっては好都合だった。

 縄跳びを5Rやって身体を温めると、次はバンテージを巻いてシャドーボクシングに移る。これも5R。1Rは3分であり、ジム内には3分毎に音が鳴るゴングが置かれており、3分やったら1分インターバルということの繰り返しで練習をするようになっていた。これはボクシングの試合のリズムと同じである。ボクシングは3分1Rで、ラウンドの合間にはインターバルが1分取られるのだ。


「深津さん、きょうは人が少ないからさ、ちょっとやってみないか」

 インターバル中に給水をしていると、トレーナーが深津に声をかけたきた。

 トレーナーが指さしたのは、先日プロになったばかりの青年だった。

 どうやら、彼とスパーリングをやってみろと言っているようだ。


 正直なところ、深津は迷った。ジムに入ってから、できるだけスパーリングはやらないようにしていた。それは、自分が怪我をしてしまうのが怖いとかそういうことではなく、自分が抑えられなくなる可能性があるからだった。

 もう通って3年だ。自分のコントロールも出来るようになっているだろう。

 深津はそう考えて、トレーナーの誘いに乗ることにした。


「ライトスパーで3Rな。深津さん、遠慮なくやってくれよ。相手はプロだ」

 マウスピースをはめた深津にトレーナーがいう。

 トレーナーは深津と同年代だった。昔はプロだったらしいが、いまは妊婦かと思うぐらいに腹が出てしまっており、その面影はどこにもない。


「いいか、相手は40代のおっさんだ。うまく遊んでやれ。力むんじゃないぞ」

 相手の選手にトレーナーが告げている声が聞こえてくる。


 おいおい、丸聞こえだよ。深津は心の中でそう思いながら苦笑いを浮かべた。


 ゴングが鳴った。

 深津はステップを刻みながら相手に近づき、軽くジャブを出して行く。

 まずはお互いの出方を見るジャブの応酬。


 相手はプロということもあって、ジャブが速く、そして重い。

 近づいて何発か殴り合う。しかし、当たるのはお互いのグローブの上からだ。

 そんなことをしている間に、1Rの終了を知らせるゴングが鳴った。


「なんだ。無事生還できたじゃないか」

 コーナーに戻った深津にトレーナーが笑いながら言う。

 ペットボトルの水をひと口だけ飲み、次のラウンドに備える。

 大丈夫だ。動けている。感覚は悪くない。そして、自分を抑えることも出来ている。

 深津はひとつひとつを確認しながら、2R目のゴングが鳴るのを待った。


 2R目は、相手が少しずつ打つようになってきた。

 もう様子見は終わりのようだ。

 グローブでしっかりガードしているのだが、時おり、その隙間を縫ってパンチが入り込んでくる。

 被弾。なんとかアゴを下げて、額でパンチを受ける。顎が上がっていなければパンチは効かない。脳が揺れなければ大丈夫だ。

 防戦一方。少しずつだが、息が上がってくる。

「深津さん、足を使って」

 トレーナーの声。

 わかっている。わかっているけれど、体が重くて動けないのだ。

 ゴングが鳴った。2R目が終了したのだ。

 口の中がカラカラになっていた。

 トレーナーから水をもらうと、口の中に血の味が広がった。

 どうやら、口の中を切ってしまったようだ。


「まだ行ける?」

 トレーナーの声に深津は無言でうなずく。


「じゃあ、最終ラウンドだ」

 ゴングが鳴り、深津は力を振り絞って重い体を動かした。

 猛攻。そう言っていいぐらいのパンチの嵐だった。

 防御することで精一杯となり、手を出すことができなくなっていた。


「深津さん、パンチ、パンチ。手を出さなきゃ勝てないよ」

 トレーナーの激が飛ぶ。

 そんなことはわかっている。しかし、出せないのだ。


 ボディに一発、いいのが入った。

 呼吸が出来なくなり、深津は身体を丸める。

 膝がマットに着きそうになるが、懸命にこらえる。

 相手が「ヤバい、やりすぎたか」といった顔になったのが見えた。

 深津はそのチャンスを逃さなかった。


 渾身の右ストレート。

 深津の右拳が相手の顔面を捕らえる。


 しかし、感触はなかった。

 ヘッドスリップ。ボクシングの基本的な避け方だ。


 深津の拳が空を切ったところで、3R終了のゴングが鳴った。


 グローブを取った深津は肩で息をしながら、ペットボトルの水を飲んだ。

「いやー、深津さん、いいね。プロ相手にあそこまで戦えるなんて思わなかったよ」

 トレーナーが深津のことを褒めちぎる。

 深津は呼吸を整えることで精一杯であり、トレーナーに言葉を返すことはできなかった。

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