第5話
「話だけなら聞いてやる。だが、話だけだぞ」
そう言って、駅前から少し離れたところにある一軒の赤提灯を掲げている居酒屋へと向かった。そこは、気まぐれに酒が飲みたくなった時に足を運ぶ小さな居酒屋だった。
居酒屋へ向かう途中で、妻に電話を入れておいた。
少し遅くなるから先に夕飯を済ませておいてくれ、と妻に伝える。妻は、わかりましたとだけ言っただけだった。いつも深くは追求してこない。もし、佐久間と一緒だと言っていたら反応は変わっただろうか。そんなことを考えながら、電話を切った。
「いらっしゃい」
暖簾を潜り、引き戸を開けると親父の無愛想な声が聞こえてきた。
まだ早い時間のためか、店内にはカウンター席に背広を着た男が二人座っているだけで、他には客の姿が無かった。
「奥の座敷、空いているかな?」
カウンターの中で焼き鳥を焼いている、禿げ上がった頭に捻り鉢巻を巻いた無愛想な親父に深津が言うと、使っている訳が無いんだから、さっさと行けと言わんばかりに、親父は無言で顎をしゃくった。
「ビールの中瓶を一本と、焼き鳥を適当に」
座敷に上がる前に親父へそれだけを告げ、店の奥まったところにある四畳半一間ぐらいの座敷スペースへと腰を下ろした。
佐久間は少々戸惑いの表情を浮かべていたが、文句を言うわけでもなく、物珍しそうに店内を見回している。
「勝手に注文させてもらった。この店じゃ、あんたが普段飲んでいるような洒落た酒は置いて無くてね」
深津の知っている佐久間は、バーへ行くとカウンター席に座り、いつもウイスキーの入ったグラスを傾けていた。おそらく、その趣向は今も変わっていないだろう。
親父の持って来た瓶ビールを受け取ると、深津は佐久間のコップに良く冷えたビールを注いでやった。いつの間にかついた習慣だった。
この3年間で深津はサラリーマンとして著しい成長を遂げた。万年平社員で退職まで過ごすのだろうと思っていたが、課長という役職に出世した。たった六人ではあるが、部下もできた。毎年断っていた、忘年会にも出席するようになった。今まで避けてきた道を深津は歩み出したのだ。
「すっかり、サラリーマンになってしまいましたね、深津さん」
少し斜めにしたコップでビールを受けながら、佐久間が笑顔でいう。
しかし、目は笑っておらず、暗い光が宿っていた。
深津はその目の中にある暗い光を見なかったことにして、コップの中にあるビールを半分ほど一気に飲み干した。
「十八で高校を卒業してから、ずっとサラリーマンさ。ただ、何度か敷かれたレールの上を走らないで脱線した事があったがね」
「脱線ですか。俺には深津さんが、サラリーマンという姿を隠れ蓑として使っているようにしか見えませんでしたけどね。あくまで本業は……」
そこまで佐久間が言った時、親父が焼き鳥の盛り合わせを持って座敷に上がってきた。タレ焼き、塩焼き、葱間、軟骨といった数種類の焼き鳥が皿には乗せられている。
「さあ、熱いうちに食べよう」
深津はそう言って、塩焼きを一本取って、口へと運んだ。佐久間は、焼き鳥に手を伸ばそうとはしなかった。
「深津さんは、いまの生活に満足されていますか?」
「当たり前じゃないか。妻と娘。それに安定した収入。普通に生活していくには十分だよ」
「何の変化も無い毎日ですよね。月曜日から金曜日まで会社に行って、家に帰ってくるだけの生活。休みの土日は家でテレビを見たり、奥さんと買い物に行ったり。そんな生活で、深津さんは満足しているっていうんですか?」
「それが普通だろ」
「深津さん、あんたは普通の生活じゃ満足は出来ないはずだ。自分を偽るのはやめてくれ」
「なに熱くなっているんだ、佐久間。別に、私は偽ってなんかいないさ」
佐久間は挑発してきていた。こちらを熱くさせて乗せようとしているのだ。しかし、その挑発に乗るような真似はしなかった。
「わかった。余計な駆け引きはやめよう。深津さん、あんたに仕事を持って来た。この仕事は、深津さんにしか出来ない仕事だ」
「私は3年前に引退した。いまはただのサラリーマンだ。だから、仕事を持って来られても引き受けることはできない」
そう、3年前に足を洗った。もう二度とヤマは踏まないと約束をして。
「本当に引き受けないつもりか、深津さん。今回の仕事は……」
「それ以上言うな、佐久間。仕事を引き受けるつもりは無い。言うだけ無駄だ」
深津は強い口調で言った。そうでもしなければ、佐久間は深津の言葉を無視して、話を続けそうだったからだ。
「わかりました。もし、気が変わったら電話を下さい」
佐久間は意外とあっさり引いた。何か裏があるのではないだろうかと、深津は考えていたが、佐久間はそれ以上、口を開くことは無かった。
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