第二部
第1話
はじめは運転手だった。免許は数ヶ月前に取ったばかりだったが、車の運転には自信があった。
築山の車は古いタイプのトヨタ・マークⅡで、マニュアル車だった。その車に築山と片桐を乗せて目的地まで行き、ふたりが仕事を終えて戻ってくるのを待つ。それが深津に与えられた最初の仕事だ。
助手席は築山の指定席であり、片桐は後部座席に座っている。片桐の席は特に決まっているというわけではなく、運転席の後ろの時もあれば、助手席の後ろの時もあった。
車内に響くのはエンジン音だけだった。カーステレオのラジオは必要な時だけ築山がスイッチを入れる。それ以外の時にカーステレオに触ることは禁じられていた。
その日は雨が降っていた。最初のうちは弱い霧雨だったが、走っているうちに雨脚は強くなっていき、ワイパーを一番速く動かしながらの走行となった。
片桐は雨の日の仕事を嫌っていた。髪が濡れるのが嫌だということを聞いたことがある。だから、その日の片桐は機嫌が悪かった。
いつものようにサイドウインドウを少しだけ開けて、築山はタバコを吹かしていた。深津も煙草を吸いたいと思ったが、運転中の煙草は築山から禁止されていたため、我慢をしていた。
しばらく車を走らせ、目的の場所へと着いた頃には、雨だけではなく雷も鳴りはじめていた。
「お前はここで待っていろ。もし、誰かが来たらクラクションで知らせるんだ、わかったな」
築山の言葉に深津は無言で頷く。
二人はレインコートを羽織ると土砂降りの雨の中へと飛び出していった。
エンジンは切らなかった。音楽が流れているラジオ局を探し出し、曲を聴きながら深津はふたりの帰りを待つ。
築山たちは五分程度で帰って来る時もあれば、三〇分以上帰ってこない時もあった。ふたりの帰りが遅いと、さすがに深津も不安になる。
雨が車の屋根に激しく打ち付けられる音を聞きながら、深津は運転席でじっとしていた。時刻は深夜一時を過ぎようとしている。すれ違う車などはほとんどなく、カーステレオから流れてくるどこか悲しげな洋楽と雨の音だけが聞こえていた。
窓ガラスがノックされた。
深津が目を向けると、そこには築山の姿があった。
慌ててロックを解除して、助手席側のドアを開ける。
築山はレインコートを脱ぎながら車に乗り込むと、深津の差し出したタオルで顔を拭った。
「出せ」
前を見据えた築山が短く深津に命令する。
「え……。タカさんは?」
深津は片桐のことをタカさんと呼んでいた。片桐隆行だから、タカさん。築山も片桐のことを「タカ」と呼んでいたので、深津は自然と片桐のことを「タカさん」と呼ぶようになっていた。
「出せ」
築山は、それだけしか言わなかった。
本気なのか。深津はそう築山に問いかけたかったが、築山はそういった質問は決して許そうとはしなかった。築山の言うことは絶対であり、それに逆らったり、質問したりすることは禁じられていた。
車を走らせようとクラッチペダルに足をかけたところで、後部座席の窓がノックされた。
深津は慌てて車のロックを解除する。
「すまない」
レインコートを脱ぎながら入ってきた片桐はそう言うと、後部座席のシートに倒れ込んだ。
その様子を深津はルームミラーで見ていたが、築山から三度目となる「出せ」を言われて、車を発進させた。
車内では、誰もが無言だった。雨とワイパーの音だけが車内を支配している。
時おりルームミラーを使って片桐の様子を見たが、片桐は後部座席のシートに寝そべったまま、動かなかった。
「マキタ先生のところへ向かえ」
しばらく走ったところで、築山がようやく口を開いた。
マキタ先生というのは、築山の知り合いだという医者だった。開業医であり、怪我をした時などはマキタ先生のところへ行くようにと、深津は言われていた。
向かう先は病院ではなく、マキタの自宅だった。考えてみたら、マキタのところと言われた時は必ずマキタの自宅へと行っていた。
車がマキタの自宅前に着くと、築山は車を降りてマキタの家のインターフォンを押した。しばらく築山は戻ってこなかったが、築山が車へと戻った時はマキタも一緒だった。
マキタは車を家の裏手にあるガレージに回してくれと深津に指示した。
後部座席に乗り込んだマキタはしかめっ面をしながら、片桐の首筋などに指を当てたりしている。
指示通りに車をマキタの家のガレージへ入れると、ガレージのシャッターは閉められ、マキタはどこかへと行ってしまった。
「タカをそこの台に乗せろ」
そう築山に言われ、深津は片桐の体を抱きかかえるようにしてガレージにあった木製のテーブルのような場所に運んだ。
そこは普段は車の修理などに使う場所のようで、ドライバーやネジなどが散乱している。
片桐のことを運んだ時に気づいたことだが、片桐は腰の辺りから出血していた。
「車の中を拭いておけ」
ぬるま湯の入ったバケツと雑巾を築山から渡された深津は、後部座席のシートを確認するようしながら丁寧に拭いた。後部座席のシートは片桐の血でかなり汚れており、何度か雑巾を洗わなければ全部拭き取ることはできなかった。
深津が車の清掃をしている間、マキタ先生は片桐の傷を見ていた。
ちらりと見た時に、マキタ先生が手に糸と針を持っているのが見えた。おそらく、片桐の傷を縫合するつもりなのだろう。
片桐は声を出さないようにタオルを口に押し込まれ、築山によって体を押さえつけられていた。
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